「思い」の有効性

「この悔しさをバネに」とか、「今日の雪辱を忘れずに」とかって、よく使いますよね。
これ、単純に考えれば「情」や「恨み」を上乗せして、いつも以上の力を出そうという試みと考えられます。でも、果たして「情」や「恨み」などの「思い」は計画の実行に有効なものなのでしょうか?そこんとこ考えてみます。
今回このような設問を設けたのは、私自身、疑問があるからです。
私は生来ぐうたらなので、よく失敗や遅延をします。その度に自分の所為なのですが、悔しい思いをするわけです。上記の「思い」がそのまま有用性を持つという理論に則れば、悔しい思いをすればするほど明日への雪辱に繋がるはずです。しかししかして、一向に私のぐうたらは直りません。
つまり「思い」そのものをいくら積み重ねても、それだけでは力にならないということになります。(あくまで私の例ですが…)
では、上記のような言説が何故まかり通るのか、そして、それが一定の効果を示すのはどういう原理によるものなのか?ひとつ『臥薪嘗胆』(がしんしょうたん)のことわざを例に考えてみたいと思います。

小説十八史略(一) (講談社文庫)

小説十八史略(一) (講談社文庫)

臥薪嘗胆とは春秋時代の越国の王・句践(こうせん)にまつわることわざです。彼は宿敵である呉王・夫差(ふさ)との戦に破れ、彼の下僕となることで生き延びるという恥辱を味わいます。下僕の身から開放された後も、句践はその恨みを忘れぬよう薪の上に臥して寝、苦い胆を嘗(な)めることで、奴隷にされた屈辱を忘れないようにしました。その結果、越は呉を打ち滅ぼし、雪辱を果たすことができたのです。
では、設問にもどります。この臥薪嘗胆という行為は、果たして人間の「思い」に寄りかかった行動なんでしょうか?私そうではない考えます。むしろ人間の恨みや情といった感情をシステマティックにする行為だと。
人間は忘れることで生きる生き物です。いくらその瞬間は「悔しい」だの「このうらみはらさでおくべきか」と思っても、時間が経ったり、他の楽しい事が見つかるとその「思い」を放擲してしまえます。つまり、「思い」を維持することは、精神に寄りかかるだけでは不可能なのです。
では、どうすれば善いか。それは「思い」をシステム化することです。越王句践は心の移ろいやすさを分かっていたのでしょう。自分の怒りや恨みといった「内部の思い」に頼ることなく、それを「臥薪」や「嘗胆」といった具体的な形に置き換えることを考えました。
こうすることで自分の中では思いが消えかかっても、「臥薪」「嘗胆」するたびに過去の思いの再生が行うことが出来、「思い」の鮮度を維持することが可能なのです。カセットテープに録音しておくように、思いを外部のものに託すことで、いつでも再生することを可能にしたのです。このようなシステマティックな作業をすることで、初めて「思い」を維持、管理することができます。
私の「思い」が維持できず、結果に結びつかないのは、越王句践のように「思い」を外部に委託して再生するようなシステムを構築できずに、そのつど反応しているだけということにある。つまり「思い」を管理し、有効に運用する努力を怠っているからです。
結論です。
○「思い」はただそれを抱くだけでは動物と一緒。それを維持し続け、必要なときに生かす「運用」を行わなければならない。
○「運用」するためには自分の頭の中にストックするだけでは消えてしまう。従って『臥薪嘗胆』のように外部に想起システムを設けなければならない。
○つまり、「思う」のみでは、結果を得ることはできない。

こんなんでました。「情」を有効活用するには「非情」(じょうにあらざる)システムを構築しなければならないのですね。「ああ、非情」。