あたし 彼女 おもしろいよ?

アタシ
彼女
おもしろいよ

まあ
ケータイ小説
あんま読んでないし

今回
はじめて
読んだわけだし

これが
ケータイ小説
全てって
わけじゃない

小説の
最高傑作?
そんな
わけでもない


でも
わかった


ケータイ小説
おもしろいよ


ケータイ小説
おもしろさ
かんじたよ


あたし彼女」はケータイ小説であると共に、文体小説です。
まあ、小説は大なり小なり皆文体があるので、文体小説と言う言葉は変なのですが、つまりは文体と小説の内容が不可分だ、ということ。「あたし彼女」は一人称であり、同時に一人称を盛り上げるための文体の妙がそこにはあります。
最初、この作品を読んだ読者は戸惑うでしょう。そう、彼女の傲慢さに。頭悪い。行動は単純。言動もアソコだチ○コだと連発する。男はとっかえひっかえ。自意識過剰。冒頭わずかでこの主人公の短所はそれこそつらつらと出てくる。正直、私も思った。「うわ、こんな頭の悪い文章につき合わされるのか」って。
でも、違う。「文章が頭が悪い」んじゃない。「文章が主人公・アキを頭が悪いように描いている」んだ。ここを読み違えると、多分数分で挫折します。
私も苦痛を抑えつつ、彼女アキの一人語りに付き合った。まあ、その動機は不純。「ケータイ小説、プギャー」と笑ってやるためだった。でも、徐々に違和感を感じだしました。
二章の生クリーム・ブランデー・ココア。
とっかえひっかえしていたカレシの一人・トモが作ってくれるのみもの。アキのお気に入り。これが出てきてから少し、風向きが変わります。それまでの一人称では延々と自分のこと、自分のセフレのことのみの頭の悪いことしか語ってこなかったアキが、少しかわる。それまでは傲慢な一人語りのみだった彼女の弱さが徐々に出てくるようになる。不倫相手の妻に刺されたトラウマ。この描き方が、巧妙でした。
彼女は、刺されたシーンを何度も、何度も、夢に見る。だけど、それを

てか

この夢

地味に

何回も見る

刺されてから

2年くらいたつのに

意外と

アタシ

気にしてないようで

気にしてる?

みたいな

実は

刺されたの

トラウマ?

みたいな

アタシって

デリケートじゃん

と、軽い、それまでの主人公のノリで描写する。このとき、ケータイ小説は馬鹿に出来ない、馬鹿にしてはいけない。と気付いた。何故だかわかります?
「登場人物と読者の心情の乖離」をテクニックとしてこなしているからです。
つまり、この文体ではアキ自身は「トラウマ、みたいな〜?」「デリケートじゃん」というノリで軽く流しています。しかし、読者にはその表層とは逆の、彼女の軽い文体とは逆の陰惨な背景が浮かび上がってきます。と、同時に陰惨な背景を軽く流してしまう彼女の稚拙さ、悲しさも。つまり軽い調子で流しているのはアキだけで、読者も、作者もこの出来事を軽く流せない。アキの一人称ながら、そこで受ける「ノリ」はアキと我々では乖離しているのです。
ううん、言語化しにくいな。つまり、私の頭の中のケータイ小説観だと、ここは
「アタシ、このトラウマが切実で、苦しい。カレシに言いたくてもいえない。悲劇のヒロイン。スイーツ(笑)」
と、トラウマを強調して同情を誘うような描き方をするもんだと思っていたんですよ。でも、ここで主人公はそんな陰残さを受け流している(かのように見える描写をしている)。そこで、はたと思ったんです。「ああ、これ(主人公の描写)は技法だな。作者は主人公をわざと共感できないように描いている」と。
そうしたある日、アキはトモからプレゼントをもらいます。ハートのブレスレット。
でも最初、トモはアキの分しか買おうとしないのです。「なんでさ、カレシじゃん?」当然アキは思います。それが多くの男の一人でも、今のアキのカレシであることには変わりないのです。多分、アキの幼稚さには「切実さ」などなく、ニュアンスとしては「ご飯食べに行ったのに、どうしてあなただけ食べないの?」程度のキモチ、ホントウに軽いキモチだったのだと思います。そして、

『てか

これも!』

アタシ

すかさず

丸も注文

トモが

びっくりしてる

てか

アタシだって

びっくりだっつ〜の

「アタシだってびっくりだっつーの」。ここからアキは変わっていきます。冒頭からの一人称で語られるアキの幼稚さと傲慢さ。それらに塗り固められた(ように見える)一人称の壁は崩れ、彼女は愛されるべき存在へと、愛される一人称へと変貌を遂げていくのです。
ハイ。これこそが私の最も強調したかった点です。「あたし彼女」が文体小説である由縁です。
一人称は変われる。変わる事ができる。普通、一人称で物語られる主人公は成長しても、言葉やボキャブラリーまでは成長しません。冒頭から終盤までの間に、同じ人物の一人称での喋り口調*1が変わる一人称と言うものにはあまりお目にかかったことがありません。しかし「アタシ彼女」の主人公は一人称は成長を続けます。たどたどしい喋り方は変わりません。精神転換したように急激に変わるわけでもない。しかし、確かに彼女が以前の彼女とは違うことが分かってくる。使う単語やそれを選ぶ思いやりで伝わってくる。それまでのボキャブラリーの少なかった「彼女」が、自分のことしか見れなかった「一人称」が、人を好きになって、人の為に「思う」苦楽を知り、世界を感じる「美しさ」を獲得する。冒頭の一人称を知っているからこそ、終盤の、劇的ではなく、ゆるやかに、それでいてきわめて人間的なリアリティをもって、変わった、変わることが出来た彼女の「美しさ」を、「一人称」を見出すことが出来るはずなのです。

と、同時に「美しい心」には世界は残酷な牙を剥きます。ハートのブレスレットのシーン。実は二章のこのシーンまでで、ほぼ全ての伏線が撒き終えられているのです。
ここから美しくなっていく彼女に牙を剥くのは、「美しくなかった頃の彼女が撒き散らした伏線」なのです。ケータイ小説の一般論として語られる「取ってつけた悲劇性」などはカケラもありません。これは「汚い一人称の彼女」自身が撒き散らしたツケが、「キレイな一人称の彼女」へと全て返ってくる物語でもあります。
そして一人称と親和性が高いのが例の文体です。この文体で、汚い言葉、撒き散らしたかのようなアキの言葉を冒頭に聞いているからこそ、それと一体感がもてないことを肌で実感しているからこそ、後半の美しくなった彼女へのより深い一体感へ辿り着けるのです。これが一般的な小説では、主人公の不快さを全面に出せても、どこかで神の目線が入り、作品を整えますす。しかしケータイ小説の文体は、不快感丸出しの、共感できない一人称の存在を容認するのです。それをギミックとして使えるだけの土壌が、存在するのです。
そこのあなた、冒頭で投げ出してはソンです。せめて彼女が変わっていき、己に復讐されていく過程を見てから難ずるべきでしょう。それからでも遅くはない。

てか

アタシ

彼氏いなかった事

あんま

ないし

当たり前

みたいな

中学から

今まで

男尽きた事

ないし

向こうから

寄ってくるし

別に

アタシから

誘ってる訳じゃないし

男ってさ

アタシみたいに

顔良くて

スタイル良かったら

磁石みたいに

くっついてくる

みたいな

バカみたい

尻尾ふって

アタシに

ご機嫌取り

まぁ

気持ちも

わかるけど

みたいな


こう言ってた彼女が、

降る雪が

消えて

なくなるのと

残って

積もっていくもの




アタシ達

二人が離れないなら

このまま

消えてもいい






アタシ達

二人が離れないなら

この世界

二人だけに

なってもいい














トモ

うちらは

どんな事が

あっても

ずっと

離れないんだからね
















アタシ

一生分のお願い

神様に

お願い

しちゃったんだからね

となっていく変化が、きっと切実さをもってクると思うから。

*1:言葉が洗練される。間が多くなる。冗漫ではなくなるナド