人の種・物語の種

人には種がある。
他人から見えない、自分でもよく分からないが、とにかくなにやらの「種」が備わっている。
ある日、それが割れる。そのとき人は、自分ははじめて「己」を知る。
でも、「種」はもとからあったのだ。


物語には種がある。
主旋律とは違う、それでいて主旋律にに寄り添い、語らずして物語る「種」がある。
ある時、それが芽吹く。読者ははじめてそれが「種」であったことを知る。
でも、「種」はもとからあったのだ。


幸村誠はそんな「種」を描く名手である。

ヴィンランド・サガ(6) (アフタヌーンKC)

ヴィンランド・サガ(6) (アフタヌーンKC)

この物語では、多くの「人の種」「物語の種」が蒔かれている。
人の種。
主人公・トルフィンは父親の仇を狙う。だが、彼は戦士としての強さを追う。敵を討つために。だが、心のどこかで、父親の見せた人としての強さが影になる。そして、その種はひそかに育っている。
デーン人の頭目・アシェラッドはトルフィンの父の仇である。彼は卑怯非情の手段を使う。呼吸する如くに。しかし、心の中には母親が植えつけた仕えるべき君主への忠義・騎士道が生きている。そしてその種は、芽吹いた。
クヌートはデンマークの王子である。彼は柔弱にして怯え生きる。王家の尊さと暗さゆえに。しかし、その優しき心は蛮勇では及びもしない、怜悧な残酷さを知っている。神の、王の残酷さを。そしてその芽は芽吹いた。
かれらは皆、表面上の己のほかに種というべき「因子」を持っている。それは表面上の心とは正反対ながらも、それとは切り離せないものだ。外形の、他人に見せられる心。人に見せていい心。ひとはそういった「分かりやすい心」を表看板として生きている。決してペルソナではない。無理をしているわけではないからだ。
ただしこの「分かりやすい心」は容易に彫琢される。波風にさらされ押し流される。そうして、「分かりやすい心」が消え去ったあと、現われるのは裸の心。すなわち「人の種」だ。これは人の本性といって善いかもしれない。もちろん「分かりやすい心」も人の本性の一部だ。だがこれは出先機関であって、容易にその姿を変える。「人の種」は、もはや変えることができない、人間のその人の「矜持」とでも言うべきものだ。人は己の心が危機にさらされたとき、この「種」に戻り、心を決める。
そういう「人の種」に、その「存在」に自覚的になり、そこに寄り添って生きる。幸村誠が登場人物へ託す期待とは、善悪彼我を越えた、人間各々の「人の種への気付き」にあるように、私は思う。

物語の種。
幸村誠原作のアニメ「プラネテス」は、私にとって美しい作品である。なぜか?
「物語の種」がちりばめられていたからだ。私はそこに平等をみた。
「物語の種」とはありていに言ってしまえば伏線である。しかし、「伏線」だけではまだ足らぬ。それは「複線」でもある。多重に隠された網の目が、話数の伸展とともに着実に密度を増していき、気が付いたら一つの模様をなしている。そしてその模様をなすのが主旋律でなくいてもいい。プラネテスはそういう美しさを持つ作品だ。
それは主人公とその仲間以外にも人生があり、着実にそれが展開していることを思わせてくれる。「世界」はカメラがフォーカスしている内側のみにあるのではない。物語の主軸であるハチマキやタナベと袖振り合っただけの人々。彼らの物語もメインストリームにつかず、はなれずに着実に進行している。
そういう平等性が、優しい。主人公のみが「濃い生き方」を「主役たる生き方」をしているわけではない。カメラの外の人間たちの痕跡は、それと同じくらいの密度があることを匂わせている。それがいい。
ヴィンランド・サガ」においても、主線軸以外の物語は進展している。
トルフィンの実家。指輪を盗んで神に嫌われた女の子。トルグリム・アトリ兄弟の「愛」。フローキの陰謀。イスラエル人の神話と、ゲルマン人の神話、「ローマ」という神話。彼らは物語の主線軸に合流しない限り、描写されない。*1しかしその物語は確実に影で進展し、気付いたときには思いもよらない姿で立ち現れるに違いない。外伝とかやわな話じゃない。寄り添いながらも、違う人生、物語(サガ)なのだ。
「人の種」と「物語の種」。ひとはこの二つの種の中で生きる。


「人の種」。主観。己に寄り添いすぎれば、世界を忘れ。
「物語の種」。客観。世界に寄り添いすぎれば、己を忘れる。
だから「人間」は難しい。
幸村誠はそうやって「人間」を描く名手である。

*1:実家はっ、描写されてっ、いるっ!…困った形で