西国街道3

<前回までのあらすじ>
ケンタッキーは大量に食べられるものではない、ということ。
12:00 勝尾寺表参道入口


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ケンタッキーの鳥まみれになった腹を引きずりながら歩いていると、右側に鳥居が見えてまいりました。
これは勝尾寺の表参道の入り口を示す鳥居です。

コラム7 <勝尾寺
西国三十三ヶ所巡礼の第二十三番札所。光仁天皇の息子・開成皇子の創建と伝え、境内の奥山にはその陵墓がある。清和天皇が回国巡礼で訪れたことが六国史の『日本三代実録』に見られるなど、由緒正しい寺。
現在では関西ローカルのCMで厄除け寺として有名。
巡礼の模様、
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「寺に鳥居?」と疑問に思われる方もいると思いますが、近世以前の日本は神仏習合、神明は仏法を尊ぶ世界です。現在でも大阪の四天王寺には門前に鳥居が存在します。

ちなみにこちらに埋まっている石碑。これは町石(ちょういし)というものです。
町石は一町=104メートルに一つ置かれた道標のことです。主に特定の寺社の参詣道に置かれ、寺社までの残り距離を表す目印としての役割を果たしました。鎌倉時代にそれまでの木の道標に代わって、石で整備され始めました。高野山の町石が有名ですが、勝尾寺のものも寺院近くにあるものは鎌倉時代のものが現存しております。ちなみに入り口部分のこの石は江戸時代に整備されたものです。うっすらと三十六町(3.744キロ)という文字がうかがえます。勝尾寺までここから4キロ近くあるということですね。
前回行ったので、今回はスルー。というよりそんな余裕ありません。ありま、有馬、箕面有馬電気軌道。阪急の前身。

12:40 萱野三平旧宅およびカルピス


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一旦、国道171号に合流し、その後萱野(かやの)という集落で再び旧道へと戻ります。ここは忠臣蔵で登場した萱野三平の生家です。

コラム8 <萱野三平重実>
1675〜1702。十三歳のとき、小姓として浅野内匠頭長矩に仕える。松の廊下の刃傷沙汰の後、早籠で事件の一報を赤穂藩に伝えたのは彼である。赤穂城開城の際、郷里の萱野の地に戻る。その後主君の仇討ちという「忠」、親への「孝」の間で揺れ動き、大石内蔵助に遺書を残し、この地で切腹自殺をする。

今でも屋敷跡や、当時の長屋門が残っております。西国街道は500メートル歩くたびに事件、旧跡、著名人に出くわしますね。イベントの多い道です。

ということで、次のイベントがすぐさま発生します。

萱野から十分ほど歩いたこのあたりに浄土真宗の寺院・教学寺があります。この寺の子息・三島海雲(みしまかいうん)こそが内蒙古で乳酸菌の技術を学び、カルピスを生み出したその人なのです。この事実に気付いたのが帰宅後だったことが惜しまれます。もし早く気付いていればカルピスを飲みながら萱野の集落を闊歩したものを…。


13:20 瀬川宿(せがわじゅく)
ようやく第三の宿場町・瀬川宿に到着しました。


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東寺−山崎宿−芥川宿−郡山宿−瀬川宿−昆陽宿−西宮宿−三宮

さきの芥川、郡山に比べ、遺物は少ないものの景観には宿場町の面影があります。

この地は交通の要衝としてのみではなく、合戦の要衝としても殊に著名です。鎌倉末〜南北朝期に二つの合戦がこの場所で行われました。
ひとつは瀬川合戦といい、後醍醐天皇に味方する赤松則村(あかまつのりむら)と、鎌倉幕府六波羅探題の間で戦いが行われ、赤松方が勝利、そのまま京都へと乗り込みました。同時期に足利尊氏が幕府に反旗を翻しこれに合流。六波羅は彼らの活躍によって陥落しました。
もうひとつは豊島河原合戦です。これは北朝足利尊氏と、南朝新田義貞楠木正成連合軍の間で行われた戦いです。前回とは打って変わり、尊氏はここでは敗れます。豊島というのは現在の豊中市を中心とした豊島郡のことを指します。(豊島郡の中央にあるから豊中)『梅松論』などの当時の書物によって、豊島河原はこの瀬川の地を指すことがわかります。この戦いに敗れ、足利尊氏は九州へと落ち延びる羽目になるのです。
と同時に、出てきましたよ。恐怖の将・楠木正成が!
この男が通った道を通るとき、必ず半殺しの目に遭うというジンクスが私にはあります。
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気付いていたんですよ、そう、ずっと見ていることをね。西国街道のいたるところに、この男がいることを!!
次回はようやっと伊丹上陸。あと楠木バスターのすばらしい「ばさら助っ人」を用意する予定。