西国街道4

<前回までのあらすじ>
楠公が見てる。

気付いていましたよ、今回の旅程、いたるところに楠公こと楠木正成(くすのきまさしげ)がいることをっ!

コラム9 <楠木正成
?〜1336。言わずとしれた皇国史観の英雄。河内国の悪党。歴史の表舞台での活躍は六年間と短いながらも、後世に名を残すこと計り知れない。大規模会戦、篭城、ゲリラ戦法何でもござれ。大江流軍学を駆使して敵を倒す。鎌倉幕府滅亡前はゲリラ戦中心の神出鬼没の山岳戦法で千早赤阪城で幕府軍を手玉に取り、建武新政期からは西国街道を行ったり来たりして戦うというように、前半と後半で戦いのスタイルを大きく変える。が、どちらかと言うと前者の方が得意そう。

そう、今回は高槻からの出発になったので訪問することが出来ませんでしたが、西国街道沿いには桜井駅という場所があります。ここは楠木正成湊川の決戦に赴く際、子息の正行(まさつら)と今生の別れをした「桜井の別れ」の跡です。
また、ケンタッキー小野原店の少し前にある社。

ここは、楠木正成が水を飲んだ場所として顕彰されています。
かように西国街道には楠木正成の影がちらつきます。彼と同じ道を歩くと半死半生の行軍を強いられるという、過去のジンクスから考えて、早急に対策を練らねばなりません。我に秘策アリ。まあ、見ていてくださいよ。


13:30 石橋


大きな地図で見る
箕面有馬電気軌道(阪急)創業時のターミナル駅だった石橋駅付近です。地名の由来は西国街道能勢街道の交差点にかかっていた石橋に由来するそうです。上の写真がその橋があったと比定される場所。

阪急電鉄の線路のすぐそばにあります。ここから線路を渡り、まっすぐに行軍を続けます。


14:00 伊丹・下河原(しもがわら)


大きな地図で見る
ようやく兵庫県に到着しました。さらば大阪。しかし旧国名では摂津のままです。かろうじて豊島郡から川辺郡へと移動したぐらい。ここらへん(下河原)は国道と合流しているにもかかわらず、当時の建物がよく残っています。

こちら浄源寺(じょうげんじ)もその一つ。境内のイチョウの木は一里塚としての役割を果たしていました。
ここから猪名川(いながわ)を渡ります。leaf往年の名作『こみっくパーティ』のヒロインの一人猪名川由宇(いながわゆう)の名前はこの川から採られています。それもそのはず、この伊丹の地はleaf創業の地だからです。
詳しくはこちら、
毒電波1 - マントラプリの生涯原液35度

歩道沿いに川を渡り、20分ほどてくてく歩きます。


14:20 多田街道 辻の碑(つじのいしぶみ)


大きな地図で見る
多田街道との交差点に合流します。多田街道は清和源氏の基礎を築いた源満仲を祀った多田神社へと続く道です。詳しくは下記の記事を参照。(こんなんばっかだな)
ただ、ただ、多田源氏 - マントラプリの生涯原液35度
その合流点には辻の碑なる石碑が残っております。

「従東寺十里」との文字が記されており、この場所が東寺から40キロの距離に位置することを示しています。別に私は東寺から歩いているわけではないのですが40キロと聞くと「はるばる来たなあ」という感、ひとしお。


14:50 昆陽宿(こやじゅく)
そして第四の宿場町・昆陽宿へと辿り着きました。


大きな地図で見る
東寺−山崎宿−芥川宿−郡山宿−瀬川宿−昆陽宿−西宮宿−三宮
昆陽は行基が近畿一帯に建立した四十九院の一つ、昆陽寺があることでも有名です。

江戸期に国道沿いに移転しましたが、旧来は西国街道に面しておりました。付近にはこの寺に関連するであろう千僧(せんぞう)という地名も残されています。また、古代以来摂関家の家領・橘御園(たちばなのみその)があり、摂関家は柑橘類を貢納していました。今の伊丹の中心地は有岡城の壕内にあたる阪急、JR周辺ですが、古代〜中世にかけては西国街道沿いが中心だったのです。
宿場にあった石碑。

「すぐ西宮」と書かれています。
…嘘だドンドコドーン!!

さて、楠木正成の影に怯えていることを前回から話していましたが、彼を打ち破る強力な助っ人がコチラにはいます。
そう、ばさら大名にして足利家執事*1高師直(こうのもろなお)その人です。

コラム10 <高師直
?〜1351。足利家重代の家臣・高氏の長。初期足利幕府において執事として辣腕を振るう。その言動や行動は過激にして朝憲を畏れぬもので、同時代の佐々木高氏(道誉)*2土岐頼遠などと共に「ばさら大名」と呼ばれる。北畠顕家を討ち取ったり、四条畷の戦いで楠木正成の子息・正行、正時を討ち取るなど武功も随一。

最強の楠木バスターこと、高師直の力を借りれば、楠木正成など恐るるに足らず!さあ、先生、お願いしますっ!!

あれ?先…生?

コラム11 <師直塚(もろなおづか)>
イズミヤ昆陽店の前にある塚。足利幕府に勝利をもたらし続けた高師直だが、尊氏の弟・足利直義(あしかがただよし)と対立を深める。その結果直義を幕府政権から締め出し、直義の部下、上杉重能・畠山直宗を殺すことに成功する。だが直義が南朝に属し巻き返しを図ると、これに敗北。摂津から京への護送中、重能の養子・上杉能憲(うえすぎよしざね)の待ち伏せに遭い、武庫川河畔で討ち取られる。その場所が師直塚である。


しっ、死んでるぅーーーっ!!??

15:15 師直塚

大きな地図で見る
正成の影を抱えたまま次回へ続く。

*1:管領の前身にあたる職

*2:今回会いに行く宇多源氏くんの先祖筋らしい