contradictには体力がいる

ネガティブで行くのは、体力がいると思うのですよ。
いえね、よくニコニコとかはてブ見ていると、
A「ツマンネ」
B「ならオマエがやってみろ」
というやり取りを見るんです。うん、たしかにBの反応はもっともです。単発のコメントでただ「ネガティブコメント」を送られた場合、そう返すしかない。でも、Bが「つまんない」と思う、その心情までもなし崩し的に否定してしまうのでは、なんか議論に進歩がないような気がします。まあ、進歩なんか求めてないかもしれませんが…。
「オマエがやってみろ」と言うコメントではお互いの会話が空中戦になってしまいます。そこでBが返す適切な言葉は、
「もっと面白く否定してみろ」
ではないでしょうか?
私は否定そのものを悪とは思いません。むしろ、個人の「自由」の礎(いしずえ)だと思っています。ですが「自由」の行使であるかわりに「否定」にはより一層の義務が生じます。「肯定」は相手の意見や発想の尻馬に乗るわけですから、「自分の意見」をことさら言う必要はありません。しかし「否定」ではそうはいかない。否定するからには「代案」が必要です。先ほどのA、Bの応酬は、BがAに否定の代案を求めていることになります。これを私が不毛だとするのはBが「初めから相手が代案を用意する気がないと分かっていてコメントしている」ということです。
具体的に述べましょう。Bの「オマエがやってみろ」を翻訳すると「オマエが同じレベルの代替物を用意しろ」となります。これは相手にまったく同じものを要求する言葉です。しかし、人間にはそれぞれ個性があります。文章を書くのが得意な人間がいれば、絵を描くのが得意な奴がいる。AAを巧みに操る才があれば、すばらしいコミュニケーション力を持つ者がいる。千差万別です。代替できるわけがありません。
ですから、ここでBがAに要求すべきは「別の似た種類のものを用意する」ことではなく「Aのスキルを駆使したものを提供する」ことなのではないでしょうか。「否定」にしても、もっと面白い否定を、琴線に引っかかるような巧みな否定を行使してみろ。と要求するべきではないか、と。
「肯定」する人間にも「否定」する人間にも、それ自体に貴賤はありません。ただ、その「行為」が「面白いか」「興味深いものか」という具体的内容は常に問われ続けます。「否定」のばあい、その説明義務が肯定より生じやすい、そしてそれを用意できないから、叩かれる。
否定するのが悪いのではなく、否定する実、コメントが紋切り型で、「面白みがない」ことこそが悪いのです。
だからcontradict(決然とした、否定)には体力がいる。