旅行に行くのは「面的把握」をするため

痛いニュース(ノ∀`) : 20代「旅行するぐらいならパソコン買う」急増 - ライブドアブログ
ということらしいです。私には旅行とパソコンをオルタナティブ〈二者択一〉に捉える発想が、正直理解できません。
旅行とは「面的把握」のために欠かせない材料であって、パソコン上で行う恣意的な「点的把握」とは、まったく違うものなのです。今日はその違いについて述べたいと思います。
<五感を使った把握>
みなさんが有名観光地として思い浮かべるものはなんでしょうか?京都?奈良?広島?札幌?
いえいえ、そういった「文字」の問題ではなく、「絵」です。どんな「絵」を思い浮かべるでしょうか?
京都なら清水寺。奈良なら大仏。広島なら原爆ドーム。札幌なら時計台。となるはずですね。頭の中のイメージは。観光地として思い浮かべるのは、文字ではなくイメージのはずなのです。
ではパソコン上で「イメージ把握」が出来るのでしょうか?
私の答えはNO。
反論が来るでしょう。「現実で見るよりもすばらしい写真がいっぱいある」「グーグルマップやストリートビューで位置把握もできる」と。
いえいえ、位置把握は視角による「認識」のみであって、五感による認識ではありません。
上記のパソコン上の作業を繰り返し、そのものに対する「「イメージ」は完璧に把握できた」と思うかもしれません。ですが、実際に行ってみると「なんだか自分の脳内のビジュアルイメージとは違う」と感じるはずです。なぜか。それは「自分」を景観の中に入れていないからです。
「絵」を見るだけで、絵について調べるだけで把握した、と考えるのは「視角の驕り」にすぎないのです。その場所に自分がたたずむことによって、たとえば奈良の大仏だとしたら、
自分と比較した大仏の相対的な大きさ〈視〉
大仏殿内に立ち込める御香の臭い〈嗅〉
大仏殿の柱の触感。〈触〉
堂内の音の反響。観光客の声〈耳〉

こういった状況が混成的にいりまじって、自分のその場所に対するイメージを構成するのです。パソコンが提供してくれるのは視角だけ、それも大きさを体感させない、モニターの為に「均質に切り出された視角」のみです。そういった「狭い認識」を「実感」や「体験」としてとらえる向きには私は同意できません。
さらに、「視角」だけの認識は「過程」を排除します。

<過程>
パソコンで特定の場所、まあここでは仮に飛騨高山あたりしてみましょうか。そこに行く場合、まず市の用意する観光ホームページに飛ぶはずです。そこで情報を得る。ですが、この方法では、市が広報している場所しか見る事ができません。まあ、それで飽き足らなければ、飛騨高山の町並みは伝統建造物保存地区に指定されているので、「伝統建造物保存地区」という単語をググればいいのですが、ここらへんの連関でも点と点の結びつきであって、観光地全体を捉えるというよりは、各々の事項を個別に見ていくという形になります。
ありていに言えば恣意的な選択になるわけです。
一方、現地に足を運ぶとなれば、車で行くにしろ、電車で行くにしろ、飛騨高山の町並みや、その他の観光地同士の距離が体感できます。この「位置把握」「移動」というのは「観光」にとって非常に重要な要素です。
パソコンでは「距離」や「時間」は忌避されるべきものです。「時間を使わず」「出来るだけ早く次のページへ移動したい」。しかし、観光というのは「距離」や「時間」などの「過程」をこそ把握するためのプロセスです。過程を忌避するのがパソコンなら、過程を満喫するのが観光。
例えば高山の観光地である「高山陣屋」の建物に入ると、廊下のような部屋に突き当たります。

これ、実は「お白州」〈おしらす〉なのです。遠山の金さんなんかがお裁きをやる時、庶民が座っている地べた。関東では露天の地べたに座らされます。しかし飛騨高山は寒冷地なので、寒空の下、何時間も座らされ続ければ風邪を引いてしまいます。そういうわけでこのような覆い屋の形になっているんですね。
もしパソコン上で調べた場合、自分に必要のない情報はスルーされるはずです。しかし、現物がそこにあって、目視できれば、興味が元々なかったものに対しても疑問がわき、それについての思念が生まれます。旅は、そこを歩くことは、こういった「思念」の材料が否応なく飛び込んでくるフィールドなのです。自分とまったく関わりのない、環境、気候、風土、人々。そこにおかれたとき、人は防衛本能にも近い形で、その場所と、自分がいつもいる場所の差異を探ろうとします。その結果として多くの知見と発想を得るのです。
旅とは場所やモノではなく、「過程」そのものなのです。
かように、
パソコン=点的把握。視角を使い、場所へ到達することを重視することに特化した分野
旅行=面的把握。五感を駆使し、場所も含めた過程をこそ愉しむ分野。

「旅」と「パソコン」この二つを同列線上に並べて比較することがすでに間違いなのです。パソコンを捨てて旅や、旅を捨ててパソコンという発想は「旅を知らない」少なくとも「その本質を分からないで流されている」人の発想と私は考えます。旅はやろうと思えば1円も使わずに出来るのです。*1そもそも。

*1:歩けば一円も使わないし、徹底した面的把握が出来る。これホント