先祖がえりという名の革命(レヴォリューション)

「空気」の研究 (文春文庫 (306‐3))

「空気」の研究 (文春文庫 (306‐3))

一つの一元的合理性を徹底的に追求させている原動力が、実は、最も非合理的な原初的な一つの力であり、この力を失えば合理性の追求は消え、この力が絶対化されればやはり合理性は消える。そしてその力は新しいものでなくむしろ最も保守的な伝統にある
                       山本七平『「空気」の研究』

うん。「常教化」(じょうきょうか)という概念とその効果を最も端的に伝えた言葉だと思います。
常教化とはなんぞや?

ここにある一人の宗教の開祖がいるとします。彼はAという教えを説き、人々はそれを支持しました。
それから数世紀。その宗派はどんどん発展していきましたが、開祖の説いた教えは「A」という実態からどんどん離れていき、Bに近いものとなっていきます。
そこである人が立ち上がります。そして訴えるのです。「こんなことではいけない。開祖の教えと現実がどんどんかけ離れてしまっている。開祖の教えにもどろう」と。

この原点回帰運動こそ「常教化」という現象です。西洋ではルターやカルヴィンによる宗教改革。日本では叡尊(えいそん)による戒律復興運動がそれに当たるでしょう。「原理主義」と言ったほうが通りはいいかもしれないですね。
「常教化」は先祖がえりによる、一種の自浄作用といえます。宗祖の教えにこだわり、新しいものを見ず、過去に根拠を求め続ける。ある意味「後ろ向き」と捉えられかねない行動です。
ですが、山本七平が言うように「最も保守的な伝統」こそが、「一元的合理性を追求する力」となるのです。そう、「革命」(レヴォリューション)を起こすちからに。
我々は、「勘違い」して生きています。
過去の事実を積み重ねれば、過去に近づけると。
自分の体を、思想を、五体を、過去の書物、文物にさらせば過去を追体験できると。
過去を、再現できる、と。
さにあらず。
そこにあるのは「ナマの過去」ではなく、ただ「過去を浴びた自分」に過ぎません。「過去」を差配する「イマ」の自分は、どれだけ過去に浸ろうと、過去に思いを馳せようと、「過去の人間」たりえない。ただ、「イマに生きて過去を思っている人間」に過ぎません。「イマ」に関する全てをブレインウォッシュして消し去らない限り、我々の存在が、認識が、過去をそのままに「再現」できるとは、思えない。
ですから「常教化」とは、「過去を根拠にした革新」にほかならないのです。イマの「需要」にしたがって、過去を恣意的に「供給」するのですから、どうしたって「イマの延長」にしか、なりえないのです。
山本七平の言う「一元的合理性を徹底的に追求させている原動力」とは、この「常教化」への意志となります。
しかし、勘違いしてはいけません。
過去に戻る手段が「無い」ように、未来を読む手段もまた「無い」のです。

人間の手は未来に触れることができない。明日の状態に手を触れ得ないだけでなく、一時間後、一分後の状態ですら手を触れ得ない。
                       山本七平『「空気」の研究』

「未来」を「夢見る」人々を「未来派」と言うことはできるかもしれません。が、彼らの行動様式は「過去」の汚いモザイクです。
伝統的慣習や、本の受け売り、思い込みといった「過去の思想の遺物」がごっちゃになって、人間を形成します。
人間の思想は未来を夢見るときに、一秒以前の情報しか参照することはできません。未来なんて、青春と同じで「過去の定点に自分を仮託して、イマを見る」時に立ち現われるだけです。それ自体は永遠に「現状認識」できないのです。
なので、「未来」を夢見る原動力は「強い過去」へと依存せざるをえません。それも現状に不満がある場合は、より強く、より古く、より根拠がある過去へと、遡らざるを得ないのです。
そこで辿り着くのが、始原であり、宗祖であり、根本経典になるわけです。
「イマ」を変えるための戦いは、未来を希求しようとも、過去に、それもより強く古い過去に典拠を求めざるを得ないのです。したがって革命の実態は「より古く、より遠き衣装をまとおうとする営為」に他ならない。しかして、その姿は「藍より青し」の言葉の如く、元の「過去」ではありえない。ニーチェの夢想した永劫回帰のようには「過去」をそのままなぞれない。
明治維新のように、ルネサンスのように。
遡りえない過去は、未来とよく似た「認識」で常に把握されます。したがって、その「様態」もまた、大過去と現状のキメラ的結合による、「未ダ来タラザリシ姿」に他ならないのです。
人間の「自己認識」は現在を頂点とした逆U字曲線に近いと考えます。
「より古いものを保守すること」こそ現状を破壊する「革命」であり、「現状に近い過去を保守すること」が通説的な「保守」なのです。
「より古いものを保守すること」が「保守」で、「未来を見ること」が「革命」などでは、断じてありません。
現状と始原(と擬するもの)の卦交によるケミストリーでしか、真に「新しいもの」は練成されえないのです。「常教化」はそうとは知らずに、常に新しく「あり」、「温故知新」はそういう「機能」を伝える概念だ。と私は認識しています。*1

*1:ただね。「日本人」の根本経典は後漢書でも魏志でもなく、やっぱり「記紀」なんだよなぁ…。ATGの人たちが縄文人や宇宙人を持ち出したり、記紀以前の考古学成果が出ても、やっぱり文字としての「体系」は「記紀」であり、「天皇」に収斂されてしまう。過去は改ざんや再解釈することは出来ても、「ソース」そのものを置き換えることは出来ない。自分が「無宗教」だと思っている人たちは、「どんなに否定しても、『日本の原初』は畢竟そこに収斂される」ことの恐ろしさを知っているのかなぁ?