秀忠の家(イエ)・徳川家 ‐風雲児たち‐

わしには味方というものがなかった
静が味方になりました上さま


わしの妻さえ徳川の女ではなかった
静はいつまでも徳川の女です


いつまでも?
はい、いつまでも……
                           みなもと太郎風雲児たち

風雲児たち (2) (SPコミックス)

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家の創始は一代目の手腕にかかっているが、家の継続は二代目の手腕を必要とする。
これは古今東西の常識である。
「創業は易く守成(しゅせい)は難し」とあるように、家を守り伝えることは家を造る以上の労力を必要とするのだ。
では、徳川幕府二代目・秀忠(ひでただ)はどのように守を成したのであろう。
そも徳川家というのは、秀忠よりはじまる。
これを聞くと「んなわけあるかい、家康が新田源氏・得川氏(とくがわ)の名字を仮冒(かぼう)*1してからが徳川の始まりだろうが!」と言われる方が多いと思う。しかし考えてほしい。家康は徳川家の創始者でありながら、徳川本家だけの創始者ではない。
尾張紀伊、水戸の御三家。越前松平家創始者でもあるのである。家康は徳川本家であると同時に、これら諸家の祖となるのだ。
なので、徳川本家そのものの家風は秀忠よりはじまるのである。
しかし、秀忠は父親の家康自身がその器量を危ぶんでいた。彼の律義者としての才は愛していたものの、国家の統治者としての能力は危ぶんでいたのだ。秀忠自身もそのことは理解していた。妻には詰られ、父からはどやされ、かれは孤独の中に自身を喪失しようとしていた。
そこで出会ったのが腰元の静(しずか)である。
彼女との一度の逢瀬で秀忠は自信を回復した。いや、自身を創り上げたのだ。それまでは、父と妻、家臣たちの間に縫い入るように、隙間に入り込むようにして、自分のスペースを維持していた。申し訳なさそうにその場にちぢこまっていた。だが、静との出会いによって、彼は自分が守るものを知り、翻(ひるがえ)って「守ることが出来る自分」を知ったのだ。
守る女を知り、守れる自分を知り、守れる家があることを知った。そして、その延長に、守るべき国を獲得したのだ。
「守成」を遂げるために重要なのは、厳密な制度であり、優秀な家臣であり、かつなによりも、二代目が自分の「家」(イエ)を主体的に認識することなのではないだろうか。

*1:他人の名字を乗っ取ること