アラビアのロレンス雑感

私の最も好きな洋画はデビット・リーン監督の『アラビアのロレンス』です。

今回、神戸市のパルシネマという名画座で上映があるという話なので、神戸在住宇多源氏くんに会う傍ら、ロレンスを見に行きました。
今日は徒歩じゃ、ないよ。
うーむ。素晴らしい。三時間二十七分に及ぶ大作ながら、全然長さを感じさせない!ロレンスのぷりちーさも、相棒アリのクーデレツンデレ世話女房ぶりも、高校の時にみた感動そのままです。ロレンスを演じるピーター・オトゥールは近年の『トロイ』においてプリアモス王を演じていましたが、子犬のようにぷるぷるふるえる身のこなしと、ラピスラズリよりもなお青い目は相変わらずでした。カワイイ男というものは、年をとっても輝きが失せないものなのですなぁ。
しかし高校時代と違って、年を経た今だからこそ気付ける『アラビアのロレンス』のよさと味わいというものがありんす。今回はそんなアラビアのロレンスに関する新発見をお伝えしたいと思います。
若かりし頃、私はロレンスを虐げた『大人』たちに憎しみを抱いていました。
彼を使い捨てにした英国軍、ファイサル王子アメリカの新聞記者その他のアラブの人々に。そして、ロレンスを侮辱した記者に罵声を浴びせた、「ダマスカスでロレンスに会った男」など、ロレンスの偉業を死語も讃える人間にシンパシーを抱いていました。
しかし、今回見返すと、どうも私の認識は間違っていたようなのです。ロレンスを愛する人間には三つのパターンがあったのです。
1.ロレンスを知りつつ利用する人間
これは、英国軍上層部やアラブのファイサル王子などです。彼らはロレンスを表面上は暖かく見守り、その裏では彼を利用して、自身の目的を果たそうとします。彼らの狡猾さに対する憎しみは、今も昔も、私の中で変わりません。
2.ロレンスを知らずに彼を愛する人
これは冒頭とエンディングに登場する「ダマスカスの男」やアラブの一般的な人々です。彼らはロレンスの噂や遠目から見た偉業で、彼を愛し、尊敬します。ダマスカスの男などは、死後のロレンスを侮辱する新聞記者にくってかかるなど、一見ロレンスの理解者のように見えます。しかし、彼はロレンスと一度握手を交わしたのみで、ロレンスの内実については何一つ知ってはいないのです。
一方、新聞記者は違います。彼はロレンスの汚れた面も直視していました。この新聞記者やロレンスの盟友・アリを含めたグループが、
3.ロレンスを知りつつ、彼を否定も肯定もしきれない人間
これに当たります。このグループには新聞記者や、アリ、ロレンスの上官の英国製・室田日出男(よく似ている)が入ります。
彼らはロレンスと行動をともにすることが多く、彼のよい面(行動力、果敢さ)と悪い面(躁鬱病、神経質、残酷)の双方を最もよく見る立場にありました。ロレンスの犯したトルコ軍虐殺という蛮行に、アリは吐き気を催し、新聞記者は「クソッタレなその面を、俺のクソッタレな新聞のために撮らせてくれ」と言うほどでした。
しかし、それでも、彼らはロレンスを否定できない。だから新聞記者はロレンスを偉大といいつつも誇大妄想であるとし、アリもロレンスの中の悪魔を否定しながら、彼の善をそれと同じように認めざるを得ない。そう、なんのことはない。
彼らはロレンスに「自分」を見ているのです。
「自分」を見てしまうから、彼を丸ごと肯定できない。「自分」を見てしまうから彼を打ち捨て、否定することもできない。彼らはロレンスという「人格」に絡め取られてしまっているのです。1の賢明なる「大人」たちはロレンスから距離を置き、彼を絡めとることはあっても、彼に絡めとられはしない。2のロレンスを知らずに彼を愛する人間たちは、ロレンスの影を仰ぎ見ている傍観者に過ぎない。しかし、3の男たちは違う。彼らはロレンスの善と悪の双方を知り、彼に絡めとられた。彼らがロレンスを否定しようが、肯定しようが、彼らの中にはロレンスが生き続けてしまう。
ロレンスの悪魔と善を正面から見、彼に影響されてアラブに民主政治を打ちたてようとする相棒アリ。彼はロレンスに、己が見る「現実の人物としてのロレンス」。己の中にあるロレンスが植えつけた「アリの中のロレンス」、その両者の存在に苦しみながら、映画の終盤で闇の中に消えます。
ロレンスの理解者、「真」のとはいえないまでも「もっとも」理解している人間たちは、彼の「二面性」を己の中に抱え、永遠に考え続けねばならない。「カリスマ」と呼ばれる存在に、真に遭遇することにはかような苦しみ、己の存在をカリスマそのものの中に見てしまう、が伴うものなのかもしれません。
アラビアのロレンス』は再見するたびに多くのことを教えてくれる、私の教科書であります。