倒錯の系譜

私の大好きな俳優に土屋嘉男(つちやよしお)という人がいます。
彼は著書・『クロサワさーん!』の中で、監督・黒澤明との交友を語っています。

クロサワさーん!―黒沢明との素晴らしき日々 (新潮文庫)

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1985年に上映された黒澤映画『乱』。土屋嘉男が試写会に行ったとき、副主役である「道化・狂阿弥」役の役者が彼を呼び止めたそうです。浅黒く焼けて、髪を後ろに縛った道化は、彼に親しげに話しかけました。「男の姿で」。
彼の名は「ピーター」。
本名は「池畑慎之介」。
そして土屋嘉男との間の名は、「エディ」。
あらゆる名を纏って生きる妖精・ピーターと土屋嘉男の出会いは16年前の新宿に、遡るのです。
倒錯、反転したオイディプスの世界が展開する、1969年の新宿に。
薔薇の葬列 [DVD]

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いんやー。スゲー。どぎつくって、胸やけがして、倒錯的で、たまんないですねこの作品!
ピーターのデビュー作にして、稀代のアンドロギュヌスをブラウン管の世界へと旅立たせた作品です。
この中でのピーターの美しいことといったら、もう。あらゆるフアッション、髪型を、自由に纏い、変化し続ける。彼いや、彼女にとっては男と女の境界なんかは存在しない、いや、ピーターという存在こそがその境界を作り上げているのではないかしらん、と錯覚するほどです。
ピーター演じるエディは、ゲイバー・ジュネのトップアイドルにして、土屋嘉男演じる支配人との愛人関係にあります。そこで繰り広げられる「現代のオイディプス」劇。倒錯した父殺し、母殺しは、倒錯していながらなぜか、不可思議な現実感をもってわれわれに迫ってきます。
それは、この映画がところどころでドキュメンタリーの装いを打ち出しているからです。
劇の進行途中で役者へのインタビューが入ったり、カット後の映像を写したりと、この映画では常に舞台裏、「外側」が描写されます。つまり、われわれはこの映画を「演じられているもの」として見ることができるわけです。まぁ、たいていの映画でもそう見ることはできるのですが、『薔薇の葬列』では作り手自身が、その境界をゆるがせにしている。「楽屋」を意識したつくりなのです。
しかし、この「映画」の「倒錯」はここからがミソなのです。
舞台の外側には現実があるのでしょうか?
いや、ありません。
ピーターは舞台の外側でも池畑慎之介にはなりません。ピーターのままです。そして今でも、2010年の今でもピーターのままでしょう。つまり、「楽屋」の外にも現実はないのです。ピーターは装ったまま、女として生き続ける。その事実が「外側」を示す作品作りによって浮き彫りになる。
そして「外側」は「内側」をも侵食する。
この作品で私が一番エロチックだなと思ったシーンは、女装を施す前の、茫洋な素顔の池畑慎之介が、口紅を塗って鏡の己にキスをするところです。
私は、そして私たちは、美しく装ったエディを、ピーターを知っている。そして装う前の池畑慎之介はありきたりの少年。聖性はない。しかし、この少年が「ピーター」に変化する媒体だと認識しているから、少年に倒錯した思いを抱く。
つまり、ピーターがいるから、池畑慎之介の存在が浮き上がるわけです。虚構の「ピーター」によって、現実の「池畑慎之介」の身体は解釈される。いや、そうとしか解釈できないように我々も調教されてしまう。
そう、我々の「外側」も喪失する。外側なんて、ないのです。カットなんて、かからないんです。
みんな、知っているはずなのに…。そういう虚構の最大与党を「現実」として生きていることを。
その虚構を、自由に泳ぎ渡るジュネ、ピーター、池畑慎之介。アルファにしてオメガ。一人にしてレギオン(群隊)。
男にして、女。


追伸
そういえば、映画の中でパゾリーニ監督の『アポロンの地獄』のポスターが頻繁に出てきましたが、こちらもオイディプス劇で、監督の松本俊夫はこの作品をだいぶ意識したそうです。で、完成した『薔薇の葬列』ですが、こちらは全世界で上映され、1970年にイギリスでそれを見たスタンリー・キューブリックが『時計じかけのオレンジ』のビジュアルイメージの参考にしたそうです。主人公アレックスのまつげや上向きの目つきなんかはピーターの影響っぽいなぁ、と。
アポロンの地獄、薔薇の葬列時計じかけのオレンジ、まさに倒錯の系譜。