一.東映的特撮とは?

さて、私がなぜ一月の間中、石井輝男を追い続けてきたか。ここいらで皆さんに明かすとしましょう。
ご存知のように、私mantrapriは大乗仏教と特撮を愛する清く正しい男です。特撮。特撮と一口にってもいろいろあります。東宝とか、東映とか。60年代とか、70年代とか。
私にとって特撮は、深刻なテーマを扱うものであり、日本人の差別の構造を浮き彫りにするものでもあります、が、なにより「珍妙な着ぐるみどもが愛し合ったり、虐殺しあうさまを楽しんだり、涙を流したりする」ことが鑑賞の主目的なのです。
したがって怪獣や宇宙人より、それら理不尽に遭遇した人間の心理を描くことを主眼とする、「人文主義」の東宝特撮より、わけのわからん等身大の珍獣が、人間と同等の思考回路を持ち、街中をそ知らぬ顔で闊歩する東映特撮が好きなのです。
で、私は20年ぐらいずっと考えているんですよ。東映的な特撮の始原はどこに求めればよいのか」を。たとえば、
 ・オープニングで怪獣が一般市民を虐殺したり。
 ・珍妙な理念や計画にのっとって街中を闊歩したり。
 ・珍獣が街中にいるのが平然な世界観。(説明はない)
 ・お約束の様式美(必殺技など)にしたがって退散したり。
 ・それが金太郎飴のように矢継ぎ早に生産される。
 ・そして何より、等身大ヒーローの存在。
円谷の特撮のように特撮部分とドラマ部分が乖離しない。「珍獣たちのいる世界に人間が紛れ込んでいるのでは」とすら思わせる東映特撮の安定感はどこから来ているのか?時代劇か?怪談物か?もし、このどちらかだとしたら、それを醸成した担い手は誰か。
それが、おぼろげながらわかってきたのです。そしてその謎を解く鍵こそが石井輝男監督なのです。
なぜか?簡単。
「彼こそが日本最初の特撮ヒーローの監督だから」

これより始まるのは長い長い、東映特撮成立への道。
そして、その果てに待っているのは、蛇か?鬼か?奇形人間か?
…to be continue