複眼のモノアイ(愛)

夢や作り話だとしてもそこに描かれた人たちに幸せになって欲しい、
力になりたいって思うのは悪いことなの!?

                                    飯塚和人

前回紹介した『ヒストリエ』同様、こちらも待ちに待った新刊、刊行。
前回この作品を紹介した時も書きましたが、私はこの作者の倫理観が大好きです。
「世界」は優しい「パラレルワールド」 〜成恵の世界〜 - マントラプリの生涯原液35度
ここで登場するキャラクター達は、可能な限り平等に、愛をもって描かれます。どういう意味か。
それは、ロール(役割)としての描写を極力しないということ。
男らしく、女らしく、現実らしく、空想らしく、人間らしく、モノらしく…、この世界のあらゆるものにはレッテルが張られています。そして我々はレッテルどおりに動くことを期待したり、期待されたりしています。物語の世界はその最たるもので、キャラクターたちはそれぞれの「ロール」にあわせたふるまいを要求されます。善玉は善玉らしく、悪玉は悪玉らしく。
「物語には正義に目覚める悪だっているし、悪に堕ちる善玉だっているよ、こんなのはロールを逸脱しているんじゃない?」
いえ、それもまた私たちに共感可能な描かれ方をしています。共感可能という一つの基軸をもとに善と悪を行ったり来たりしているのです。ですが丸川トモヒロの場合善悪云々の前に各キャラクターが「それぞれの感情」として、世界に対峙しています。善、悪以前に感情として好きか、嫌いか。首肯できないか、できるか。各キャラクターがそれぞれの倫理観で判断し、世界に問うていることが作品のどたばたのなかから、浮かび上がってくるのです。
そしてそれは、必ずしも多くの、「一般的な倫理観」に沿うわけではない。
冒頭で紹介した主人公・和人のセリフ。友人の考えた物語の世界。その世界の住人を助けるために、命をかける覚悟を伸べた言葉です。宇宙人・成恵の恋人となってから和人の「現実」は崩れ、あらゆる不可思議な事柄が目の前に突き付けられます。彼はその現実を受け入れ「人間」以外にもその手を差し伸べます。宇宙人にも、機械にも、空想の世界の人間にも。
これをマンガというフィルターをはずして、常識的に考えたら恐ろしいことです。もし、人間以上に共感可能な「モノ」が現れた場合、そちらへ加担するということもありえるのですから。

だから子供の頃は個的なメカが様々な舞台を所狭しと活躍する番組ばかり観ていました。
今では一部を除き少数派な気がします。
モノと幸せは直結しないと気づいたからでしょうか。
人のかわりに壊される標的か、理解不能な怪物として描かれることが多い気がします。

                                     丸川トモヒロ

巻頭の作者コメントの一部です。
作者は生物以外の「モノ」。たとえそれがアトムやドラえもんのような共感可能な形でなかろうとも、それらに共感していた日々を、自分を大切にしていると感じます。「モノ」を選んでいるのです。人よりも、という意味ではなく。人と同じように自分のメモリーに価値を残す「媒介」といて。
そして私は、この『成恵の世界』というマンガが、最終的にはあらゆる概念、あらゆる「モノ」を、肯定するために描きつづられている気がします。
それは「個人の感情」といった単純なしかけではなく、『成恵の世界』のその『世界』自体が、過去、現在、未来、現実、空想、人間、宇宙人、機械。ありとあらゆる「モノ」たちの「思い」を、地続きに肯定できるように。SFらしい風呂敷でもって、この物語をたたんでくれる。
そんな予感をひしひしと、感じさせてくれるのです。