「社会」が恐ろしいと思った瞬間

いやね、こども。
それも乳幼児ぐらいのこども。
よく泣くやないですか。

衣食住に関することならまだしもですが、よく理由が分からないことで泣くやないですか。
で、おとんやおかん、にいちゃんねえちゃんが困るわけですいね。

そんで「いないないばぁ」とやったり、あれやこれやで泣きやませるんですな。

たいていの子供はそこで泣きやむんです。ええ、そう、それこそが問題。

結局、彼らの泣いていた理由が、わからんまま闇に葬られる。
彼らも泣いていたときには、「俺は日本政府の対米追従姿勢に憤ってんねん!」やら、「笠間のファミレスは10時開店でモーニングがないねん!どういうこっちゃ!」
やらの個別の「怒りの源泉」を持っていたはずなのに、小手先の「いないないばぁ」に騙されて、義憤を忘れる。
これがいかんのですわ。
おまえらの怒りはそんなに軽いもんなんかと。矜持はないのか、と。そんなていたらくやから大人になめられるんちゃうんか、とね。
「子供は感情の充足とともに、目的も忘れてしまえる」それでいいんか、と、思うのです。
要は誤魔化しですわ。
でもね、最近恐ろしいと思うのは、これは子供だけの現象じゃないんじゃないかなぁ、と。
私たちが大切に思っているあれやこれやの「モノ」も、「いないいないばぁ」のような手段で、誤魔化されて、かつ自分を誤魔化して、消してるんじゃないかなぁ、と。
思うわけなんですよ。
もしも、我々のメンタリティを「子供」ととらえる「新人類」が出てきたとき、我々の営為やあきらめからこどもの「いないいないばぁ」と同じものを見出すのではないかと、私は思っているのですよ。
そしてそう考えるとこの社会に「私たちが本当に必要なものはどれだけあるのかなぁ」と考えて、
そのはかなさを恐ろしいと思うのです。