相対化される「人間」 −ローゼンメイデン・マンガとアニメの違いー

真紅完成。

ということで、この作品を語るにあたって逃せない論点。ローゼンメイデン』という作品のマンガとアニメでの違いについて触れねばなりますまい。
たとえば

「ばらすぃ」と「きらきー」。
マイルドな蒼い子とハードな蒼い子。
「和風おじじ」と「洋風おじじ」。
「絆パンチ」*1のあるなし

まあ、数え上げればきりがありますまい。しかして私の考える両者の最大の違いは、
作品の視点がジュン視点か、ドールズ視点か。ということか、と。
アニメ版(特に無印)はドールズのミーディアム桜田ジュンを軸とした物語構成となります。
これはアニメが一クールという限られた話数となっており、主人公を基軸として物語を展開していく必要があるためです。ドールたちはジュンよりも個性的に、活動的に立ち回りながらも、彼の「復活」のための「人形遊び」の役割に徹しています。ジュンが一歩前に踏み出すため、彼女たちは存在し、最終回でジュンの成長を見届けるとその姿を消します。つまり、物語の「主観」はあくまでジュンであり続けるのです。
かようにドールズを「寓話的」に位置付けるのが、アニメ版のローゼンメイデンになります。一方、マンガ版だと、この「寓話」は様相を変えます。
当初はジュンの成長のための寓話であったドールズたちの存在は物語が進むにつれて変化していきます。アニメ版ではジュンをはじめとしてミーディアム(媒介)たる人間たちの鏡としてドールズが存在しました。人間の移し鏡である、文字通りの「人形」として。マンガも当初はこの路線に沿って展開するのですが、三段階のステップを踏んで、その様相を変えていきます。
第一ステップは「翠星石蒼星石」編とでもいうべき双子のドールを中心にした章です。

Rozen Maiden 新装版 3 (ヤングジャンプコミックス)

Rozen Maiden 新装版 3 (ヤングジャンプコミックス)

Rozen Maiden 新装版 4 (ヤングジャンプコミックス)

Rozen Maiden 新装版 4 (ヤングジャンプコミックス)

ここでは蒼星石ミーディアムである老人の弟との葛藤を通して、二人のドールの愛憎が描かれます。ミーディアムである老人はテーマの中心でありながら影が薄く、老人(人間)を通して双子のドールの心情を描いているのです。
いわば、人間が人形の「寓話」と化している。
まあ、ここでの老人はサブキャラクターであって、話の中心ではないのですが…。第二段階では主人公自身の位置づけも変化します。
Rozen Maiden 新装版 7 (ヤングジャンプコミックス)

Rozen Maiden 新装版 7 (ヤングジャンプコミックス)

アニメ版のジュンと同じく、マンガのジュンも学校への登校を試みます。箱庭から出て、外へ羽ばたこうとするジュンをアニメは肯定的に描きました。しかしマンガではドールたちの存在を「顧み」ず、自分のことだけを考えて突っ走っているジュンを批判的な視点でとらえています。もともと「寓話」として現れた存在でありながら、完全に「実体」としてとらえられていることがうかがえます。望まれるのは「人形遊びからの、箱庭からの脱却」ではなく、「人形を他者として受け入れること」へと変化しているのです。
そして第三ステップ。ヤングジャンプへの移籍によって決定的な「存在の地場転換」が生じます。
ジュンが文字通り「ヤング」に「ジャンプ」してしまうのです。
ローゼンメイデン 1 (ヤングジャンプコミックス)

ローゼンメイデン 1 (ヤングジャンプコミックス)

ヤングジャンプでは主人公は中学生の「まいたジュン」と、大学生の「まかなかったジュン」の二人に分裂します。存在が分裂したことでもはやジュンは固有の存在ではなくなってしましました。一方、真紅や水銀燈などのドールズは、別の時間にも「アイデンティティ」を維持した、固有の姿で存在し続けます。
そう、人形だから。
人間は年とともに心や体を変えますが、人形は変わらない。そしてマンガという磁場の中では「変わらないもの」「普遍的なもの」ほど中心を得られる。
そう、ジュンは時間によって相対化され、ドールズの存在が「固有性」を持ってしまったのです。もはやジュンは「人間」というだけでは、いや人間だからこそ、主観を維持できなくなってしまった。
相対化された「人間」と「人形」の関係は「対等」になってしまったのです。
いやはや、PEACH-PIT先生は恐ろしい。こんなに「先」まで行ってしまった作品をキャラクターコンテンツとしてとらえるだけではもったいない話ですよ。


〈次回予告〉

次回は「『絆パンチ』に見るローゼンの筆法」というタイトルでお送りします。あと雛苺完成させる。

*1:第五ドール真紅の最強必殺技。少年マンガばりのページぶち抜きで相手を殴る