で、石井輝男って何がすごいのか?

映画監督・石井輝男を語ることは難しい。
人は芸術作品や難解な作品については容易く語ることができる。自分の普段思っていることを適当に織り交ぜても、作品の抽象性、ありていにいえば分かりにくさに紛れて、それっぽく聞こえるからだ。
しかし、石井輝男のような娯楽作品、それもエログロといった人間の根源的な部分に結びついた作品の批評は困難になる。何故ならそれらのもつ面白さは「明快なもの」であるからだ。どういうことか?
元来、人というものは自分の外側にあるものはまことしやかに語ることができる。しかし自分の内側にあるものはどんなに単純なものでも、いや単純であればあるだけ根源的になり、語ることが難しくなる。「エロだから」、「グロだから」だけでは何の批評にはならない。それは時代劇を作品個別の要素や工夫を見ず、「時代劇だから面白い」と言うようなものである。語るならば「独自性」を言わねばならない。
そんな語りにくいものをどう語るか。その一つの指針として、「イメージの理性への先行」をテーマに石井作品を語りたい。
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たとえば「徳川いれずみ師」という作品がある。これは吉田輝雄演じる刺青師が、小池朝生雄演じる悪の刺青師と、熾烈でシュールな刺青合戦を繰り広げる、石井輝男のエログロ時代劇ものの中でも指折りの名作である。
この話のラスト、吉田は小池との勝負に勝つため、オランダ人の娘を拐かして、その体にアバンギャルドな刺青を施す。そしてなんやかんやで勝負を繰り広げた屋敷は火の海に。そんな中、吉田演じる刺青師は、自身が刺青を施した娘を命がけで助ける。その際に「この子はいい子だから死なせるわけにはいかない」と言う。
だが、本作中に彼女の性格描写はない。彼女はただの哀れな刺青被害者であり、彼女がいい子か悪い子か、視聴者にはわからない。したがって「いい子」うんぬんは、ただてるおがそう言っているからそうなんだという、身も蓋もないことになる。しかし、起こっている出来事が刺青勝負の末の大火災という、超常的なシチュエーションであり、そういったささいな疑惑は一瞬観客の頭に浮かぶものの、別にどうでもよくなって、「とりあえずそこんところは納得しておくか」という気分になってしまう。
石井作品にはこの類の人物描写の欠如というもの往々に見られる。その最たるものが石井の代表作である「江戸川乱歩劇場 恐怖奇形人間」だ。

この作品では、罪のない娘をさらって人体改造を繰り返していた奇形人間のいびつな情念の物語である。まぁ、ぶっちゃけ土方巽なんだが。彼の奇形人間を狂気の王国の建立へと駆り立てたもの、それは妻の不義密通だったというのが後半で明かされる真実なのです。
で、妻が巽に「あなた、許してくださいね」とわびを入れる。瀕死の巽は弱々しく「ときぃ…」と妻の名を呼び、その和解を受け入れる。一見感動的なシーンだ。しかし考えてみてほしい。この奥さん、実は20年近く洞窟に軟禁され、蟹しか食わせてもらえないという非道な処遇を夫から受け続けていたのだ。それなのに、いつのまにか話が奥さんの不義密通問題へと収斂され、明智小五郎ですら「奥さんも苦しんだんだ。ゆるしてあげなさい」と、家庭内調停程度のもの言いをしくさる。とんでもねぇ。この男の情念のために何人の人間が生きたまま身体を切り刻まれ、不具の姿でのたうち回る化け物に変えられたか!とうてい許される所行ではない。しかし、そんな過程やら、我々の「常識的判断」やらは、すべてカッ飛ばされる。…あまりにも理不尽である。で、物語はいつのまにか夫婦の和解へとシフトしてしまい、その直後に人間花火が上がることで、登場人物も、観客も、それまでの過程すべてがどうでもよくなってしまい、ぽかんと阿呆みたいになりながらエンドロールを迎えるのだ。
かように石井作品には激しい「飛躍」がある。このパラダイムシフトのあんまりにもあんまり具合に、私たちはあんぐりと口をあけたまま、呆然とさせられる。人文主義ヒューマニズム)の世界からはカッ飛んだ論理が展開する魔窟。設定中毒の人間には耐えられない破綻の続出。それが石井輝男の世界。
だが、そこが、いい。
これこそが、石井作品の最大の魅力なのではないか。理性的に考えればおかしな文脈が、イメージの力で容易くねじ伏せられる。観客は飛躍に首を傾げながらも、おなかいっぱいな満足感とともに劇場を後にする。
石井輝男の「飛躍」はどのように定義すればいいのか。私は、その正体を「イメージの暴走」と考えている。二つの例で示したように、石井作品において理論が破綻するとき、必ず画面上では強烈なシーンが展開している。いれずみ師の炎上シーンしかり、奇形人間の人間花火しかり。怒濤のシーン展開によって、論理の破綻に気を取られる暇がなくなってしまうのだ、いや、むしろ気にしていたら輝男ワールドのジェットコースター的展開に、脳のCPUが追いつかない!
それはイメージ先行、絵のインパクトを優先して作品が作られているため起きる現象で、脚本段階では考えられていたはずの「理性的な文脈」が、イメージ優先の絵づくりによって、叩っきられてしまうのである。
こういった飛躍は映画なら大なり小なりあることだ。しかし石井輝男の凄さは「イメージ優先」が、キャラクターの感情や機微を片っ端から叩き折るほどに展開していることなのだ。並の監督なら躊躇してしまうであろう破綻も、それによって効果的な絵になるなら、ものともせずにオミットする、その「イメージへの飽くなき欲求が輝男の凄さ。
しかしこれだけでは世の芸術的な監督と変わらない。輝男の真価はここに「早さ」が加わることにある。論理や機微を振り捨て、イメージを矢継ぎ早に展開する。
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一つの挿話を挟もう。「仁義なき戦い」や「203高地」の脚本で有名な笠原和夫という脚本家がいた。彼が1960年代、「顔役」という任侠ものの脚本を書き、それを深作欣二が撮ることになった。しかし、脚本に描かれたやくざ役の高倉健と、堅気で学のある女性の恋というプロットに深作は納得できない。戦後の思想の転向の並をモロにかぶった笠原は「人間は灰色だ、場合によってはどのようにでも変わる」との人間観を持っており、深作はそれを否定する。そして深作が撮影をしないまま時間だけが経っていく。この二人の思想の違いは「県警対組織暴力」の頃まで尾を引くのだが、まあそんなことはどーでもいい。この二人の「思想的葛藤」に割り込んできたのが、我らが石井輝男である。
石井は自分が「顔役」の撮影を代行することで、二人の対立を仲裁する。そしてあれよあれよという間に作品を撮り終えてしまった。できあがったフィルムに展開しているのは二人が思想的に対立していた部分はすっかりオミットされた、安藤三男や潮健二が乱れ飛び、関西やくざと関東やくざ主要メンバーがぐるっと円陣を組む中で、鶴田浩二健さん兄弟仁義を織り交ぜて銃で撃ち合うという「いしいてるおかんとくのかんがえたかっこいいはたしあい」的世界であり、イメージと様式美とスピードと兄弟仁義によって、良い意味で思想を感じさせない傑作へと仕上がっていた。笠原は脚本を変えられた怒りよりも、そのスピーディな展開と様式に収れんさせる手腕にまず感心していた、という。
かように輝男時空によって論理的対立は容易くスピードやら絵の中に埋没して、その残滓がちょびっと伺われる程度にまで、かみ砕かれてしまう。そのスピード感によって観客は正常な判断を奪われ、起こっている出来事に追いつくために必死になるというはなし。
石井輝男の世界で虐げられ続ける機微や思想の姿を見ると、「人間はこんなものでいいんだ」と、逆に救われた気持ちになる。そこで繰り広げられるれることがいかに救いがないように見えても、展開の早さとイメージの奔流によって、陽気に思考は停止するし、中で苦痛に喘いでいるはずの登場人物たちにも、なぜだか陽気なものを見てしまう。そして失楽園の昔にすら、本能のままに生きたけものであったころにすら、時間を超えて思いを馳せることができるのだ。
「イメージの奔流」、「展開の早さ」、「虐げられ続ける論理」。この三つの調和が石井輝男を日本映画界にとって掛け替えのない逸材としていると、私は考える次第。