神のみぞ知る「世界」(セカイ)と「現実」(リアル)

神のみぞ知るセカイ、いよいよ十月からアニメ化ですね!
http://kaminomi.jp/index.html
今の四大週刊誌(ジャンプ、マガジン、サンデー、チャンピオン)の連載の中で一番好きなの、この作品なんですよね。エルシィかわいいし、桂馬男らしいし。
この作品は「ゲーム世界の神」を自称する主人公・桂木桂馬(かつらぎけいま)が、ギャルゲーで鍛え上げられたテクニックを駆使して女の子を落とし、その子にとりついている悪魔を払うという内容です。桂馬は「現実はクソゲー」と豪語してはばからないゲーム世界の住人であり、ゲームヒロインを落とすテクニックのすさまじさから「落とし神」と呼ばれています。彼はゲームで得た「理論」を駆使して、現実の女の子たちを「攻略」していきます。ギャルゲーのメタフィクション的な内容で展開するのが、「神のみぞ知るセカイ」という作品です。
こう書くと「それなんてエロゲ」と、軽い内容に思われるかもしれません。しかしこの作品、ライトな皮をまといながら、その実、「人間」の関係性や、世界との関わり方について、ハードな部分までえぐり出しています…。
今回は「桂木桂馬の考えるセカイ認識」に焦点を当てて、この作品のテーマを考えていきたいと思います。

ボクが好きなのはゲーム女子だけさ!!
現実(リアル)なんてクソゲーだ!!

神のみぞ知るセカイ 1 (少年サンデーコミックス)

神のみぞ知るセカイ 1 (少年サンデーコミックス)

第一話で桂馬が言い放ったのが、上記のセリフです。以後「神知る」という作品の基調路線となり、毎回必ず出てくるセリフとなります。
この言葉を「ゲーム脳」的に受け止めれば、
現実=クソゲー
ゲーム=本来の世界
となります。自称宇宙人よりも危ない人間ですね、これ。ですがそんじょそこらのパラノイアと、我らが桂馬は違います。彼のゲームへの、ギャルゲーヒロインへの愛は、岩より硬い。

ゲームと現実(リアル)を、一緒にするんじゃない!!
ゲームはゲーム。現実(リアル)は現実(リアル)さ。
なんでもゲームと結び付ける人のほうが区別できてないんだ。

これは彼が英語教師に向けて放った一言です。この教師「お前のような奴が、ゲームと現実が区別できない犯罪者になる」と桂馬を一括します。この論調は世に言う「ゲーム脳」を批判する識者と同じものです。ゲームによってバーチャルとリアルの境界が麻痺し、人の命を軽んじるようになる、と。
ですが桂馬のゲーム認識はより強固でした。彼は現実からの「逃げ道」や代償としてゲームを求めているのではないのです。彼の中には強固なゲームという価値観があり、それは現実と容易く置き換えられるものではない。現実(リアル)とゲームははっきりと区分されているのです。その区分けは、自分の都合次第で現実と空想をごっちゃにする「リアルを生きる」人間よりも、さらに強固なものなのです。
ある意味、真のゲーム脳を獲得した人間、と言えるでしょう。
ここで考えるべきは桂馬が憎む「現実」というものの実体です。彼は完全にゲームという「彼岸」から、こちらを眺めているのか。それとも…

ボクは現実(リアル)の世界なんてなんとも思っていない。
だってボクは…
ボクの信じる世界(せかい)がある。

神のみぞ知るセカイ 2 (少年サンデーコミックス)

神のみぞ知るセカイ 2 (少年サンデーコミックス)

図書館ガール・汐宮栞(しおみやしおり)に対しての言葉です。彼女は本の世界に生きる自分と、ゲームの世界に生きる桂馬を同一視します。汐宮(しおみや)栞(しおり)、桂木(かつら=けい)桂馬(けいま)と、同じ音が連なる名前という共通性も両者の近さを示しています。
ですが、桂馬はその言葉を「ウソだね」と、一蹴します。そう、栞は本の世界に生きているように見えて、誰よりも人と関わりたい。桂馬はそれに気づいていました。しかし、自分は違う、そんなものを求めていない、と。そして上のセリフが出てくるのです。彼は現実の代償として、人とうまく関われない代償として、ゲームを求めているのではない。自分の「信じる世界」に拠って、立っている、と。
ここで現実(リアル)とゲーム以外の、第三のテーゼが示されるのです。作品タイトルにもなっている「世界」(セカイ)というテーゼが。
桂馬の言う「世界」。つまりは神のみぞ知る「セカイ」。これはゲームの「世界」のみを指す言葉なのでしょうか?その謎を解く鍵が教育実習生・長瀬純(ながせじゅん)のエピソードにあります。
長瀬純は桂馬の通う学校の卒業生です。大学の教育実習生として母校に戻ってきた彼女は、大好きなプロレス仕込みの「熱血」で、生徒たちを導こうとします。しかし、現実(リアル)にぶつかり、落ち込んでしまいます。
桂馬は、彼女の「熱血」からはもっとも遠いところにいる人間です。群れを嫌い、リアルを嫌う。しかし、そんな桂馬が、彼女にこう言うのです。

理想の前にはみんな不安になる。
それが現実(リアル)の壁なんだ。
でも…
それでもお前は、
やらなきゃならない。

どれだけ傷ついても、孤独でも…
お前は理想を見せなきゃいけない!!

神のみぞ知るセカイ 5 (少年サンデーコミックス)

神のみぞ知るセカイ 5 (少年サンデーコミックス)

この言葉が出る前に、桂馬は純と一緒に、彼女の好きなプロレスを観戦します。そしてプロレスの面白さを実感します。と、同時に周りを省みず理想を求め、人に押しつけようとするようとする純の姿も見てしまうのです。それでも桂馬は言います。「お前の理想を押しつけろ」と。
私は思うのです。この「理想」こそが、「神知る」という作品の、そして桂馬の言う「世界」(セカイ)なのではないかと。そしてこの理想を阻むものが現実(リアル)なのではないかと。

人は皆、現実(リアル)という最小公倍数を軸に生きざるを得ません。人と同じ表情を作り、人と同じ振る舞いをし、人と同じ価値判断をしていると信じる。みんなと「繋がっている」ことを信じる。そんな空気のような幻想が「現実」(リアル)だと、私は考えます。
世界の和を、集団の和を維持するためにこの「現実」は欠かすことができません。ですが同時に、この現実によって、ささやかな安心によって、理想は抑圧され続けるのです。
理想は、有り体に言ってしまえば「我が儘」のことです。こうありたい、かくりたい。という個人の夢や欲望は、周囲とぶつからずして貫くのは難しい。その衝突に疲れた果てに、人は夢を止揚し、現実(リアル)という言い訳をまとうのです。捨てた理想への後ろめたさか、そもそもの無自覚からか、現実を身にまとった人間は理想を持つ人間を「浮いている」と言って我知らず抑圧する側に回ります。桂馬をオタメガと呼んでバカにしたり、純を暑苦しいといって後ろ指を指します。
桂馬はゲーム、純はプロレス仕込みの熱血。それぞれの「理想」が「現実」という顔のないものに抑圧される。つまり、桂馬の言う「ゲーム」と「現実」は、ヴァーチャルとリアルの単純な二項対立のみを指す言葉ではなく、「個人の理想」と「理想を抑圧する集団」にも置き換え可能と言えます。
つまり桂馬はゲーム世界のみを「世界」(セカイ)としているのではなく、「個人が理想を反映しようとしている場」をひっくるめて「世界」(セカイ)という言葉を使っているのではないでしょうか。桂馬は、集団というだけで己こそが「摂理」と奢る「現実」(リアル)に、共通認識に、背を向けて、神のみぞ知るセカイ。つまるところは己のみが知る「理想」に、生きているのではないでしょうか。
そう考えれば桂馬は我々以上に「現実」(リアル)を認識し、世界(セカイ)に生きているとも言えます。純のエピソードの終わりに、桂馬はふとつぶやくのです。

現実(リアル)には理想が足りない…
理想の結末が、必要なんだ…

神のみぞ知るセカイ」。桂馬の理想が、「世界」(セカイ)が、リアルにどう対峙していくのか。それも「神のみ」が知るのかもしれません。あー、アニメ化楽しみ。