わたしの好きな唄

みなさん、お元気でしたかぃ?
あたしは、げんき、現金掛け値無し、三井の番頭・井上聞多ときたもんだ。
今日は水府(水戸)の方にちょっくら足を運んだのさ。
するってぇとどうだい。水戸芸術館の前で五條真由美(ごじょうまゆみ)がライブをやっているじゃないか。
あたし、思わず立ち止ったね。それから一時間立ちんぼで聴き通し。
え?五條真由美をしらない。そいつぁ困ったね。まあこれを聞いてみてくんな。

こいつを歌ってるひとだ。まあ、あたし的にはこっちなんだがね。

うん、たまらないね。あたしみたいな大きいお友達にゃ。手拍子交じりで乱痴気騒ぎさ。
で、そんな狂喜のときこそ、あたしの灰色の頭脳は稼働するからサ。前々から温めてた理論のピースがハマったのよ。
あたしの好きな唄は「ストーリーの歯車になる唄」だと。
歌は世につれというけれど、昔の歌が歌うのはみんな「自分」でありながら、「自分」じゃなかった。
むつかしいね、うーん。つまり、昔の歌は「己」という狭い了見でものごとをとらえていなかったてことサ。
まあ、ライターとシンガーが分業していたこともあるんだろうけど。昔の唄はいい意味で、突拍子もなかったり、アンバランスだった。
身の丈を考えてなかったり、気恥ずかしかったり、無責任だった。
天下国家を歌ったり、到底いいやしない人や者、自分の口からは金輪際出てこないようなフレーズも平気で歌った。
それは、「唄」と「己」がいい意味で離れていたからだ。自分の身の丈に合わせようと、誠実になろうとしなかったんだ。「いい意味で」。
今の世で、その精神を伝えるのは児童向けのアニメソング、だとあたしぁ思ってる。特撮はちょっとだめかな。こっちぁ悪い意味でカリカチュアライズしすぎるか、暗喩が多い。
富野なんかぁ、わざとあの時代に戻ろうとしてるね。キングゲイナーなんかみてると思うね。それでいてカリカチュアライズ臭や懐古臭を感じない。あの人やっぱり偉いよね。阿久悠を範とするだけぁある。
自分以外の、自分の身の丈を離れた誰かに己を仮託する。そういう精神が保存されてるのが「児童向けアニメ」の唄なんだよネ。
己を消してキャラクターになる。キャラクターを構成する歯車の一部として、世界を構築する。
そういうの。あたし、たまらないんだ。好きなんだ。
それは決して全体主義じゃないと、思う。人間はいつでも、どこでも、自分以外の誰かを夢見る権利があるンだ。
そしてそれは、隣にいる自分の身の丈に合う「誰か」じゃなくったってかまいやしないんだ。
そういう「夢」を見られるのが「子供」だけなら、みんながそう思って「今」の「己」しか見られずいかなきゃぁいけないなら、この世は闇だね。
そんなこと、思ったのね。「プリッキュア、プリッキュア」。歌いながら、サ。