2011-04-15

19:45
RT @ibarakishimbun: 那珂湊のおさかな市場、28日に全店再開:茨城新聞ニュース http://t.co/Z42XYiL #save_ibaraki

20:47
人に物事を伝えようとする際、最適な方法はたとえ話である。これは釈迦の時代から変わらない。世界三大宗教の教祖は皆、卓越したたとえ話の腕を持っている。

20:50
で、たとえ話が人工に膾炙していくとタイトル(朝三暮四、画竜点睛)が独立していく。これが警句である。

20:53
つまり警句とはたとえ話のフレーズのみを抜き出したものということになる。この状態になると警句からたとえ話を脳内で解凍することが可能になる。つまりたとえ話のエッセンスがフレーズに圧縮されるのだ。

20:55
しかし警句を多様することには思わぬ落とし穴がある。いくら人口に膾炙しているとはいえ、警句からたとえ話への解凍の方法や理解の深度は各人によって違う。しかし、警句のみの会話だとお互いが齟齬に気づかず、話が進んでいってしまう。その結果誤解が生じる。

20:58
で、最悪なのは相手の言葉のほんのささいなワンフレーズを、勝手に抜き出して警句化して、自分独特のたとえ話へと恣意的に解凍することだ。マスコミという業態を憎むべきなのはこの点にある。彼らはどんな善人でも宿命的にこの行為を行わざるを得ない。

20:59
なぜならば報道するということは、絵を描くことだからだ。ストーリーを組み上げない報道は、散文である。

21:03
人の言葉を切り取って、勝手にたとえ話化する、ストーリーを広げていってしまう営為からはジャーナリズムは逃れられない。できることは絵を描いた責任を最後まで負うことしかない。

21:08
それに取り巻かれ、それを元に判断するしかない私たちにできることは、会ったことのない人間について語られることに感情を反応させないこと。これだけ。

21:10
判断することは必要だが、感情を反応させるのは「付け足し」にすぎない。想像力が豊かなのはいいことだし、それを惻隠の情だというのもまぁ良いことだが、それに支配されるのは馬鹿げている。

21:13
同情はいいが、概念だけの「同情」を広げてはならない。人のそばに寄り添うことはできるが、人の思いを完全に理解することはできない。しかし人に代わって人を憎むことは容易くできる。

21:16
自分がひとりぼっちなのと同じように、こころもひとりぼっちであることをきちんと受け止めなければならない。そして人の、自分のひとりぼっちのこころを容易くどうにかできるとは思わない方がいい。

21:22
だから古の宗祖たちは人それぞれにカスタマイズしたたとえ話で、それぞれの人に語りかけた。決して「みんな」に、「かくあれ」と一斉送信の如き強制はしなかった。

21:30
最近、ご飯を食べるときは目をつむって、口の中に入れたら箸もおいて、ゆっくりかんで、30分近くかけて食べるようにしています。

21:35
@LDmanken 子路みたいな直情な人、子貢のような才走った人、顔回のように淡泊な人、それぞれ違った人格に違った答えを用意するのはしごくまっとうなことなんですが、情報の広域での共有化があたりまえになった現代は、ありもしない「誰にでも通用する真理」を求めたくなるんでしょうね。

21:40
RT @hiranokohta: 蘭姉ちゃんの頭のとんがりの部分は武器。

21:46
RT @hiranokohta: 蘭姉ちゃんの頭のとんがりの部分と、エスカフローネの鼻と、アカギのアゴは触れただけですべてが真っ二つになる聖なる武器。

22:05
@LDmanken 「どこに行けばいいか」というのはある程度誰でも言えるんですが。「どのような人」が「どうやって」行くかっていうのは、一人一人に真摯に向き合わないと言えないことばなのかなぁと。宗祖や偉人がたとえ話を使うのは、常にそこにいる相手に向き合う姿勢からだと思っています。

22:28
@LDmanken 確かに、Twitterの痛し痒しな部分です。いずれチャットか何かでお話しても面白い課題かもしれません。


http://t2b.utilz.jp/