2011-04-21

00:00
@LDmanken あ、自分が言ってることに前後で少し矛盾が出てきました。「王は生き方でない」と「天才は生き方である」。王は「制度の中の人間」で、天才は「個性」で。えー。ううん。

00:06
@LDmanken 白黒ハッキリした裁断。たしかに。荀子を一般向けに、実用的にしたところが韓非子にあると思います。断定的な部分も実用性重視なところですね。でも曖昧な物言いより断定的に言ってくれているからこそ、読む側にはすがりやすいのかなと思います。

00:12
@LDmanken そう考えると私の挙げた三人はリーダーではありますが、あんまし目指したくないキャラクターかもしれません。どっちかっていうとラスボスか、海原雄山な立ちはだかる年長者な人たちですね。

00:19
@LDmanken 孔子のバランスが後の儒者で二極化して、抽象化、理念化したのが孟子、個別具体化したのが荀子と考えています。で、荀子をさらに具体化したのが韓非子と。私はどっちかというと孟子より荀子→韓非路線の方が好きなんですね。

00:29
私なんかは揺らぎがちな人間なので、個別具体的に比喩と実例を列挙してスパスパ切ってくれる韓非の方が、イーディッシュで包括的な孟子よりも安心します。政の場合スタートラインが八姦だらけだったので、その実相と生態をえぐり出した韓非の言葉はかなり胸に響いたと思います。

00:40
@LDmanken 惻隠の情も、英雄や天才への作用とは別の意味で「他者に自分を見てしまう」作用のなせる技だと思っています。それを根拠に「性善」だとすると、他者に自己嫌悪を投影する時、容易く裏返ってしまうと危惧します。政は自己愛なさそうなのでそこらへん分かっていたんじゃないかなと。

00:43
@LDmanken おつかれさまです。なんかいろいろ跳んじゃってすみませんでした。

00:53
@LDmanken 是非お願いします、お手柔らかに…

11:57
片野城なう。岩槻を追われて以来、放浪の旅を続けていた太田三楽、梶原政景親子が小田氏治(天庵さま)から奪い取って終のすみかとした城です。

11:58
城の中心には太田三楽が佐竹郷から勧請した七代天神がまつられています。

12:03
太田三楽は永禄九年(1566)に佐竹義重によって片野城を預けられたので、松山城落城、謙ちゃんブチギレ幼児虐殺事件から三年後のことになります。

12:07
片野城二の郭からの眺め。ここは畑になっています。 http://twitpic.com/4nfcb9

12:18
一の郭なう。杉が植林され、往時の様子とは変わっていますが、土塁は当時のものがしっかり残っています。 http://twitpic.com/4nfgv2

12:27
一の郭から二の郭、三の郭を望む。一番奥の三の郭の位置に七代天神があります。 http://twitpic.com/4nfkn0

12:39
しかし中世城郭のツイピクって、見せられているほうは雑木林だらけでわけわかめでしょうな。

12:49
角馬出らしき痕跡。馬出とは虎口を守る施設であるとともに、出陣に際して兵員を集結させる場所でした。 http://twitpic.com/4nft3v

12:59
太田三楽斎資正(道誉)公の墓。岩槻への帰還が果たせぬまま天正十九年九月八日、常陸国片野城で70歳の生涯を終えます。 http://twitpic.com/4nfxa6

13:38
片野城全景。 http://twitpic.com/4ngbma

14:13
坂東第26番札所・南明山清滝寺なう。 http://twitpic.com/4ngmok

14:35
清滝寺本堂。創建は推古朝で、中興開祖は徳一(とくいつ)上人です。 http://twitpic.com/4ngtch

14:37
徳一は南都六宗のうち法相宗の僧で会津を中心に活動しました。最澄との書簡による論争が有名です。

14:39
藤原仲麻呂の息子説が昔からありますが、真偽は定かではありません。

15:08
土浦市立博物館なう。これから小田天庵さま展(嘘です。本当は天庵さまの菩提寺の法雲寺展です)見てくる。

15:12
ちなみにすぐ裏側は土浦城。小田天庵さまが太田三楽、梶原政景父子に小田城を取られたときによく避難しにきました。 http://twitpic.com/4nh3t8

15:25
鎌倉将軍家御教書案。安貞二年(1227)、常陸大ジョウ氏馬場朝幹(ばばとももと)の訴えを受け、北条泰時と時房が八田氏の常陸大ジョウ職への就任を避ける裁定を下している。常陸大ジョウ(常陸国の三等官)じゃなくなった常陸大ジョウ氏なんて、常陸大ジョウ氏じゃないもんなぁ。(訳わかめ…)

15:40
小田氏治像なう。小田氏治(法名天庵)は小田城の城主にして八田朝家以来続く名族です。太田三楽、梶原政景親子に酷い目に遭う人です。でも肖像画カイゼル髭を蓄えたかなりのイケメン。飼っている猫も一緒に肖像画に描くプリティさも併せ持つ。魅力多き人です。

15:46
太田道誉書状なう。天正17年(1589)に書かれた、死の二年前の書状です。「三楽斎」と「道誉」の二つの署名があります。

15:49
この書状には五郎左衛門という三楽の息子・太田景武(おおたかげたけ)の名もあります。放浪は親子三人だったんですね。

15:55
で天庵公百五十年忌祭録という資料もあり。これは子孫によって大々的に行われたそう。天庵さまは最弱レベルの戦国武将なのに領民や子孫への慕われ方は最強レベルなんだよなぁ。不思議だなぁ。

16:01
国宝・蘭渓道隆墨跡なう。蘭渓道隆鎌倉五山筆頭の建長寺の開山で、北条時頼の帰依を受けました。彼の自筆で建長寺内で守るべき規則が記されています。

16:03
ここには罰則も多く記されていて、犯した者は罰金ではなく、罰油。所持している灯油を取られるみたいです。

16:48
法雲寺なう。今回の小田氏の展覧会の主な出品はこの寺の寺宝です。 http://twitpic.com/4nht60

16:51
小田天庵さまのお墓。幕末の慶応二年に子孫の小田朝泰によって建立されました。 http://twitpic.com/4nhu3y

17:13
小田城なう。道兼流藤原氏宇都宮一族の八田知家を祖とし、天庵さまの代まで400年にわたりこの地を支配してきました。 http://twitpic.com/4nhzp1

17:20
この地は小田氏の招きによって北畠親房が拠点とし、神皇正統記を執筆した場所としても著名です。

17:22
現在、往時の姿を復元するため、堀を掘ったり、土塁をクレーン車で積み上げたりと、小田城絶賛制作中であります。

17:26
で、佐竹に敗れ小田氏の支配が終わった後、小田城は梶原政景が領有することになります。

17:27
なので、岩明均の「雪の峠」ファンの人も必見ですよ。小田城。


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