2011-05-13

01:30
西欧の直線的な時間軸を前提にした物語作りにおいては、どうしても結末に向けて物語を構成する必要が出てくる。それによって得られるカタルシスは多い。だが、そこに至るまで、ストーリーの展開上ダレるところがどうしても出てきてしまう。

01:35
東洋やギリシアの円環的時間軸の中でも、物語は結末へ進む。だが、結末へ至ることそれ自体を目的にするのではなく、結末は添え物でそこへ至る過程を楽しむ。このやり方は全体としての整合性は弱いが、シーンシーンで切り抜いても堪能する事ができる。歌舞伎や落語などの伝統芸能は皆、そう。

01:38
では、この直線ストーリーと円環ストーリーを大きく分けるポイントは何か?それは人間を主軸に置くか、アイテムを主軸に置くかの違い。

01:40
人間を主軸に置くことは、その人間の変化を追うことを主目的として定めることになる。そうなると心情の推移という時間軸が生じ、ある結末へと向かう、直線的な時間が現出する。

01:42
一方、アイテムを主軸に置く場合、それに対してリアクションしたり、それと関わることで変化する人間は登場するが、あくまでアイテムに関わる人であって、人が主体になるわけでない。したがって人間を軸に追いたときのような直線的な時間軸は形成されない。

01:44
ここでのアイテムは具体的なモノである必要はない。シチュエーションや状況、舞台と言い換えてもかまわない。直線ストーリーは人間を描くためにアイテムを利用するのに対し、円環ストーリーはアイテムやシチュエーションを描くために人間を利用する。

01:47
物語を描くときはどうしても人間を描かなければ、という強迫観念にかられる。しかしそれでは息詰まることも多い。そうなったときは先祖の方法に立ち返り、アイテムやシチュエーションのために人間を配置するのだと考えれば、楽になるのではないだろうか?

01:49
…てなことを聖痕のクェイサーを見ながら考えたのさ!このアニメアホすぎ、サイコー。

01:52
「胸」というアイテムを主軸とした本作は、キャラクターの心情やストーリーラインの整合性よりも、「女性の胸が出てくるシチュエーションを如何にして現出させるか」という一点で物語を展開させている。そのあまりの潔さに、これこそが円環的時間軸におけるドラマツルギーだなと、思った次第。

02:00
@enchoko おいしいです。一流のアニメーターたちが戦闘シーンをないがしろにして、銭湯シーンに心血を注いでいる頭の悪さも含めて、サイコーです。

02:06
物語が描けていない、人間が描けていない、だが面白い。そういう作品を評する時には、「円環的時間軸に沿った作品作りをしている」あるいは「古典芸能の精神に則った作劇である」と誉めればよい。

02:10
ホントゥに聖痕のクェイサーであったり、そらのおとしものであったり、オヤマ菊之介であったりとシチュエーションに全力をそそぎ込むアホ作品に対しては、批評云々以前に愛するしかない。こればかりはしようがないんだ。

02:11
やっぱり愛だよ、愛。

02:13
@enchoko 湯気とか光とか、もう彼らも愛すべき「キャラクター」ですね。

12:31
ミュージック笑見てる。落語家勢ぞろい。司会は立川志らく。何故か柳亭市馬だけスーツ着てる。

12:34
三遊亭白鳥は今日赤ラインに白ジャージ

20:11
物事を相対化するためには「痩せ我慢」が必要。痩せ我慢によって初めて己の身の丈があらわになる。


http://t2b.utilz.jp/