2011-05-22

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フェノロサや天心がやったことは仏像を信仰の対象という本来の使用方法(純粋に美醜を問わず信仰の対象として均等視してたかは疑問)から解き放ち、観賞という視点へとシフトさせたことで、仏像を見る際の私たちの視点は信仰の対象と観賞の対象。二つの視点に引き裂かれることとなる。

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本来の用途として使うことと、純粋にモノとして観賞すること。仏像の例でも分かるようにこの二つは矛盾をはらみながら同居している。

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ここに第三の用途が存在する。それは「身につけるための美」。書を代表とするこの分野は作品をイデアとし、その姿に近づく、あるいはその姿を手本に超克することが目的とされる。観賞と用途がもっとも矛盾しないのが書というジャンルなのかもしれない。

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私がアニメを好きなのは対象の所有でも、用途としてでもなく、実は「身につけるための美」だからです。ああ、この感情の描き方はいいなぁ、ああ、この描線はいいなぁ。目の描き方はいいなぁ。そういう手本。模倣欲を喚起するものとして愛する。自分の手業として身につけたい欲望。

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厳密には所有欲の一種なのかもですが、その完成品がほしいのではなく、それを完成品として成り立たせる「前提」がほしい。「パーツ」がほしい。完品そのものは想起する装置としてはほしいけれども、それを成り立たせる「何か」の手がかりとして欲しい。

00:17
業(わざ)であり、業(ごう)ですね。


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