2012-08-03

04:19
「慣らされた人」について、考えている。
慣らされた人は、自分の外の世界を語る時だけ、善悪二元論を持ち出して、自分自身には善悪二元論を適用しない。
彼が善とするものから、知らず知らずのうちに、そうするように、慣らされているんだろうな。

04:27
慣らされていない人は孤独である。彼は確認することで一層不安に陥っていく。答えを何個も何個も思いつき、その何れもが掬いきれないと感じるから、孤独である。

04:31
結局、じぶんの孤独な魂を引き受けることしか、慣らされない方法はない。水琴窟のようにカンコンと奥底から立てる音に耳を傾け、その弱い響きを誤魔化さず、安易な回答にすがりつかない人しか、独立した大地に立つことはできない。

04:34
独立した大地に立つ人たちは、それぞれが尖塔のようにそびえ立っている。彼らはそれぞれの尖塔が、僅かな部分しか、共通点を持っていないことを知っている。しかし、お互いの高さを視認することで、信頼し合うことはできるのだ。結局はそれしかできないということを、知っているのだ。

04:37
意気に感ずるとは、そういうことだ。相手が自分と「同じ」だから、意気なのではない。相手が自分と違っても、自分の尖塔を、その高さを見てくれるから、意気なのである。

04:46
意気を問うとは、枠組みでも、所属でもない。ただシンプルな自分自身を抽出できるか。相手のシンプルな心根を抽出できるか、ただそれだけなのである。単純な、個人的な、ただそれだけの問題なのである。

04:52
バベルの塔が、カ・ディンギルが、本当にあったかはわからない。だが、バベルの塔を仮構することで、私たちは皆が一つの言語を使っていた世界を想像することができる。人々の災厄を説くための装置が、一つの言語でつながる可能性を示唆する装置として働くとすれば、なかなか乙なものではないだろうか?

04:54
過去は読み替えられる。過去は、過去自身が思っても見ない形で再生する。そのことは希望でもなんでもないのだが、そこに入れられる「心」があるということは幸福である。

22:05
『理由は後からやってくる、初めは理由がわからないのに、ある事が気に入ったり、気にさわったりする。それが私の気にさわるのは、後になってしかわからないその理由の為なのだ』だが、私の思うには、後になってわかるその理由の為なのではなく、気にさわるからこそ、その理由が見つかるのだ。
パンセ

23:21
パスカルにフランス語訳した華厳経を投げ与えたらどんな反応するんだろう?思考的にはキリスト教よりも親和性があると思う。
まぁ、少なくともキリスト教を称揚するためだけに他宗教を持ち出す事はしなくなるだろうな。

23:38
パスカルさんのいうことには頷けることが多いのだが、他宗教に顔がないと言うか、はじめからその他大勢としか扱っていない。
一つの信仰の中にいて所属するかしないか迷っている人間には効果があるが、多くの宗教が溢れた現代においては、勧誘の書にはならなそう。


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