勇敢と堅忍について

最近、お風呂の時間にクラウゼヴィッツの『戦争論』を読んでいます。その中に勇敢と堅忍について叙述されている部分があり、大変参考になりました。
勇敢、堅忍と、字面だけ見れば、なにやら精神論のように聞こえ、抵抗感を抱く人も多いと思います。しかし、クラウゼヴィッツの勇敢、堅忍の捉え方は、「精神論の上の精神論」に立脚しているのです。

実際、勇敢には空間、時間および量等による数字的な計算では説明のつかない成功の確率が認められねばならないのである。
つまり勇敢が自分に劣る相手に出会った場合には、あたかも無から有を引き出すように、相手の弱点を利用して成功の確率をわがものにあするのである。

ここでクラウゼヴィッツが語るところの勇敢とは、それを以って情報や知性を体力を補うものではなく、これが等しい状況にある相手に対して効果を発揮するということを述べています。そして、軍隊で上の地位に行けば行くほど勇敢さが必要とされます。

クラウゼヴィッツ戦争論の本編で度々語ります、「戦争は博打の中で最も際たる」ものだと。これは戦争が運に支配されているということではなく、理を尽くしてもなお、不確定要素が忍び込んでくるということを述べています。
その不確定な戦争の中で将帥は幾度も、妄想と不安に揺り動かされます。その心うちの疾風怒濤は、前線で倒れゆく兵士よりもなお、変転し絶え間ないのです。
このような精神の荒波の中で、彼に均衡を保たしめるのはひとえに勇敢さなのです。つまるところ勇敢さとは外界に影響されない立脚点のことを指すのだと思います。

精神によって支配され、指導されるような勇敢は、いわば英雄の真価を保証する極印である。

このような勇敢さは、彼と我の比較に終始する人間には手に入れようがありません。「根拠なき自己の絶対性に没入できる胆力」がなければ、勇敢とは「弄ばれるだけの言葉」へと堕すのでしょう。

で、この勇敢さは伝染します。いや、させることこそが将帥に課された義務なのです。
ナポレオンの大陸軍や、アレクサンドロスマケドニアは最初から強かったわけではありません。彼らは稀有な将帥の、稀有な勇敢=自己絶対化の荒波に揉まれ、強兵となっていったのです。

次に堅忍です。勇敢が行動への自己絶対性だとしたら、堅忍は精神保全の自己絶対性です。
軍を駆け巡る、真偽入り乱れた情報。その中で必要なものを手に入れるにはどうしたらいいか?物事を客観的にみるためにはなにが必要か?
それは逆説的に聞こえますが、自己絶対性です。自分の判断に傾注し、揺るがない。そういう自己保全こそが、情報をソートするための指針となるのです。
客観的に判断するためには、基準が必要です。そして基準とは己にしか、結局のところないのです。

堅忍は揺るがない己を保全し続ける強さ、勇敢は保全した己を下界に、全軍に及ぼすのが勇敢です。
勇敢も堅忍も、結局のところエゴなくてしは保全され得ません。真に相対的な判断とは、最初からエゴを前提として、様々な情報にぶつけ、エゴを彫琢して行く中で得られるもの、なのでしょう。