どうぶつは空気をよむ
どうぶつは空気をよむ、いじめもすれば、愛もある。
どうぶつは距離感をしっている。たわむれの姦淫もすれば、アイデンティファイもする。
そうなれば、最も「人間らしい」と我々が信じている諸所のものは、わりあいに人間らしくはなく、最も人間らしくない諸所の機械的な抑圧は、もっとも人間らしいものなのかもしれない。
それを「人間らしい」と言いたてないのは、我々が人間らしさにどこか、高を括っているからだろう。より人間らしく生きることを、さも、動物らしく生きないことと、勘違いしているからだろう。
そういう意味では架構とイメージとで作られた、イスラエルという国や、パリの街は機械的な調律によって成し遂げられたという点では人間らしく、海に土地を区切られ、統一感なく林立するままのビルに任せている、抑圧されることなき都市・東京は自然の精神の元、構築されつつある景観と言えるのではないか。
自然とは環境だけでなく、精神にも付帯するものであり、それを調律しようという試みは極めて人間らしく、窮屈な姿なのである。我々は「人間らしく」生きようとすれば、早晩、その景観の凄まじさ、心象の凄まじき際まで、追い詰められ、死に至るだろう。