川内康範先生は何が偉大だったか。それは日本に「ヒーロー」というものを創設したことにあります。少なくとも私にとっては。
本邦初のヒーロー「月光仮面」は仏教思想を下敷きにして生まれました。月光は、薬師本願功徳経に説かれる薬師如来の脇侍・月光仮面がその元ネタになっています。熱心な法華宗の信者であった先生の生涯や作品には仏教的なモチーフが多く見られます。「ダイヤモンド・アイ」のヒーローは真言密教金剛界曼荼羅に表されている愛金剛菩薩をモチーフとしています。自身の宗派である法華宗に止まらない、広範な仏教的知識を有しておられた先生は、その見識にたがわない博愛主義者でした。
月光仮面の合言葉「憎むな、殺すな、赦しましょう」最も簡単、それでいてもっとも難しいこの合言葉。仏教のみでなく、広くあらゆる宗教、人種に共通する戒律。それは人のためではない、何よりもその言葉を語る自分のためにあるものなのです。「情けは人のためならず」。
先生は同時に徹底したヒューマニストであった、と私は考えます。先生のヒーローはいつでも仏菩薩の化身。人間ではない存在を媒介としていました。「正義のシンボル・コンドールマン」、「愛の戦士・レインボーマン」彼等に冠されたフレーズは、決して飾りではありませんでした。コンドールマンは「正義のシンボル」です。彼には人間としての人格はありません。家族のことさえ、覚えていません。彼の体だけが人間のまま、心は人間としてのしがらみが取り払われた「正義のシンボル」なのです。
レインボマンことヤマトタケシは愛の戦士です。その「愛」は、家族への愛、日本への愛ではありません、平和への愛。世界への愛です。そしてその「愛」=ヒューマニズムを貫くためには家族、恋人、友人をキケンにさらしてしまうことになります。しかしタケシに止まることは赦されないのです。「いまさら後へはひけないぞ だからゆくのだレインボーマン」。なのです。
何よりも先生の敵、先生の作り上げた「死ね死ね団」や「モンスター一族」は外の世界からの侵略者ではありません。我々の復讐心、欲望が具現化した姿。我々の似姿なのです。「憎み、殺し、赦さない」我々は容易くこのような存在を生み出してしまうのです。そして恐ろしいことにそれも「ヒューマニズム」人間中心主義のなせる技なのです。そこで、西洋的なヒューマニズムに仏教的な上位者・観音や菩薩といった外部の救済者の存在を想定します。ヒューマニズムがその存在ゆえの危機に陥ったときに立ち表れるのが「ヒーロー」なのです。
しかし誤解されてはならないのは「ヒーロー」は我々にとって都合のいい存在ではないということです。彼等は常に他者なのです。それを根拠にして自分の正当性、優越性を謳う、そんな都合のいい「親分」ではありえない。彼等は人を試します。ヤマトタケシのようなヒーローであり、人間である。いわば神仏習合のような存在は常に「人間の論理」と「神の論理」の狭間で揺れ動くのです。ヒーローを祭り上げ、生贄にしてしまえる人類の醜さ。その上でなお「人は救われるべきか」「救うとは、救われるとは、救いとはなんなのか」考え続ける。
我々は大人になると「ヒーロー」という存在をあざ笑います。「そんな都合のいいものがいるわけない」「子供だまし」と。そう、いないのです。でも、あなたは誰かにヒーローを押し付けてませんか。ヒューマニズムに立ちきれず、ていのいい責任逃れのときだけヒーローを担ぎ出そうとしていませんか。「他者を自分と違うものとして扱おうとしていませんか?」ヒーロはそんなに甘いものじゃない。ヒーローを否定し、それでもなお縋ってしまう。そんな己の弱さを突き詰めた末でないとヒーローを否定も、肯定もできはしない。先生は「ヒーロー」=「他者」=「仏菩薩」が人間そのものにはなしがたき道ということを知っていました。それでもなお、それを求め、それに近づき、そうあれかしと「思わねばならない」。その苦しみ。人間という「存在」に対するアンチテーゼであり、期待であり、諦観。いりまじった姿が「ヒーローなのです。」
先生はヒューマニズムのが「人間主義」であると知っています。と、同時にヒューマニズムが「人間中心主義」でないことも知っているのです。先生の中心に位置する仏教思想、その上に立ったヒューマニズムは常に、試され続けます。そしてあくなき求道には決して休息も、安易な解決も、ないのです。