第十二説難

趙高(ちょうこう)は戦国〜秦の宦官で、始皇帝に仕えました。彼の十八子・胡亥(こがい)の教育係となり、始皇帝の死後、その遺言を改ざんし、を二世皇帝として擁立することで秦の権力を一手に握りました。
その伝記は『史記列伝』の李斯(りし)列伝、及び蒙恬(もうてん)列伝に詳しく記されております。

史記列伝 2 (岩波文庫 青 214-2)

史記列伝 2 (岩波文庫 青 214-2)

彼は要所要所で韓非の説くような弁論術を披露し、二世皇帝・胡亥や宰相・李斯*1を手玉に取ります。まずは二世皇帝に権力の簒奪(さんだつ)を誘うシーンです。
趙高はまず、尋ねます。

始皇帝はみまかられ、公子(始皇帝の子息)を王に封じるとの遺言は残されておりません。ただ、長男の扶蘇(ふそ)さまだけに皇帝を継げとの遺言を残されました。あなたには一辺の領地も残されてはおりません

巧みです。皇帝になれとは一言も言いません。もちろん意味としては「あなたが皇帝にならなければ、領地一つ無い境遇に甘んじることになる」ということを匂わせているのです。
趙高の甘言に胡亥は以下の三つをもって反論します。

・兄を殺して弟が位に立つのは不義である。
・父の仰せに従わないのは不孝である。
・才能がないのに天下を握ろうとする、無能である

以上の三重の徳にそむくと胡亥は反論します。後世「馬鹿」の代名詞*2として歴史に名を残す胡亥ですが、どうしてどうしてなかなか答弁も立派なものです。ただ、相手が悪かった。

大事を為すためには、小事にはこだわってはいられません。それらは全て小さな地方における徳でございます。小事ばかり気にかけて大事を為さねばかえって鬼神の罰をこうむることになりましょう。あえて断行すれば鬼神もこれを避け、成功いたします。

一見分かりませんが、ここで趙高はかなり巧みなレトリックを駆使しています。
まず胡亥が述べた「三つの徳」についての反駁を「小事に対する徳である」と一括します。その一つ一つに反駁を加えることなくまず大きな言葉で恫喝を試みるのです。こうして不義、不孝、不能という部分に議論の焦点が移ることなく、かつ徳についての議論の延長であることはかわりありません。
趙高は相手の「徳」に関する議論に乗りながら、それを単純化します。かつ秦という大国の「大事」の前ではそれらは押しなべて「小事」であるとして、三つの徳を彼方に追いやってしまいます。徳についての議論を単純化し、切り離すことに成功します。
次に「鬼神」を持ち出します。傍から見ている我々には「うひゃひゃ、鬼神だってよ。いままで道徳にたいしての議論が進んでいたのに急に神がかるのかよ。古代人は」との思いを抱くかもしれません。そういうアナタ。アナタが一番、騙される。
徳は小事の判断基準。鬼神は大事の判断基準。
これだけ聞いたところで、人は「何を馬鹿なことを」というと思います。しかし趙高のレトリックの巧みなところは、この理論の移行を段階的に行っているところです。
徳→大事ではなく小事にたいして有効→大事には無効→細かい徳に拘っていれば鬼神が祟る→思い切って行動すれば祟らない
徳=小事とし、さらに小事に拘っていれば鬼神の罰を被ると、貶めます。これがもし徳=鬼神が祟るとすれば古代人も「何を馬鹿なことを」と言ったに違いありませんしかし趙高は「小事」というワンクッションを挟むことでアクロバティックな変換を成し遂げます。議論のベースが「徳」から「大事、小事」へと移り、さらにその判断基準は「鬼神」へと摺りかえられたのです。
「怪力乱神を語らず」とは孔子の言葉です。「生きている人のことすら分からないのに、鬼神のことをかたってもしょうがない」という意ですが、逆に言えばこうしたところで鬼神を持ち出されれば「議論」にならないということになります。大事=鬼神という関連性は、「徳」=「小事」と切り離し、今回の問題を抽象的な方向へ、そしてありていに言えば趙高の思惑へと引き付けます。ああ、鬼神って便利。
こうして「大事を為すか、小事を為すか」と単純化された議論に絡めとられ、胡亥は遺言の改ざんを決意します。ここに二世皇帝は誕生し、趙高が権力の中枢へと上りゆくのです。しかし、趙高にはまだ戦うべき相手がいました。秦国宰相の李斯です。
次回は李斯と趙高のたたかいと、レトリックを見ていきたいと思います。
続く。

*1:秦の宰相。韓非の友人で、彼を死に追いやった張本人

*2:「馬鹿」という言葉の原義は、胡亥に趙高が鹿を献じ「これは馬でございます」と述べた。胡亥は「どうみても鹿ではないか」と答えたが、他のものは胡亥よりも趙高の権勢を恐れていたので、皆「馬である」と追従を述べた。という説話から来ている