仰げば尊し

あおげばとうとし*1 わがしのおん*2
おしえのにわにも*3 はやいくとせ*4
おもえばいととし*5 このとしつき*6
いまこそわかれめ*7 いざさらば*8

*1:仰ぐ、上を見上げること。この言葉では、1.師を仰ぎ見る、2.師との日々を空を仰ぎ見て思い出す、の二つの解釈ができます。ただし「仰げば尊しっちゅーことは、仰がなきゃ尊くならないんかい、インチキや」という突込みが入るかもしれません。ハイ。そのとおりです。師は、ただ師であるのではなく、仰ぐことで初めて「師」となるのです。「じゃ、仰がなきゃ偉くもなんともないちゅーことやな。そんなもん、どうでもええやんか」との突込みが入るでしょう。はい、そのとおりです。ただし、この突っ込み野郎は肝心なことを忘れています。人は人を仰ぐことで初めて「自己を規定」することができるのです。師を仰ぐことで初めて弟子となり、また、誰かの師となることができるのです。「人はひとりにてひとにあらず」誰かを仰ぎ、サルマネしながら学習することでしか「何者か」にはなれない。仰げない人間は尊くないし、尊さを認識することもない

*2:和菓子の恩です。師に餌付けされた弟子の姿が目に浮かびます。うそです。

*3:ガーデンです。囲われた空間です。刑務所みたいなものです。ただ違う点は、この刑務所はキャリアアップすることです。「赤信号、みんなでわたれば、怖くない。刑務所も、みんなで入れば、学校だ」どちらも教えの庭です。あ、今いいこと思いついた!『押絵の庭』とすると急に夢野久作っぽくなるっ!!「精神病棟だと思ったら、実は一人の男が作った押絵の世界だった」みたいな『カリガリ博士』と『ドグラマグラ』を足して二で割ったようなストーリーが出てきたよ。ふしぎ。

*4:「はや幾年です」間違っても「早っ行く年」ではありません。これでは「去年『行く年来る年』を見たと思ったら、もう今年の『行く年来る年』だよ」になってしまいます。ちなみに私は去年の「行く年来る年」のトトカルチョをしていまして、「オバマ大統領が訪日の際触れたから福井県小浜市の明通寺が出るだろう」と予想していましたが、外れでした。来年は陸山会にちなんで小沢氏の故郷である、奥州市の黒石寺が出ると予想しておきます。

*5:「思えばいと年」。つまりだいぶ年取ったなぁ、オレという嘆きをあらわします。ウソです。「思えばいと疾し」です。「いと」は強調する「いと」です。「いとおかし」トカ。今は「疾」の字なんて疾風や疾病ぐらいしかつかわんよなぁ。ひねくれたやつなんかは「思えば糸綴じ」なんて思いつき、和綴じの本やファイルを想起するやも知れません。そして昔を懐かしむ、と。ノスタルジックですなぁ。でも、スライド式ファイルができたから前世紀の遺物さ

*6:「胸騒ぎのとしつき♪」ちがった、「腰付き」。勝手にシンドバット。このフレーズ、私の中では「釈迦力コロンブス」に匹敵するぐらいの破壊力。「思い返せばとても早かった日々よ」と、思い返す段にはノスタルジーに浸れるんでしょうが、実際戻ってごらんよ、アンタ。過去に栄光はあれども、過去を追体験することは残飯漁りにも似た気分になるさね。永遠に同じ時を体験し続けるニーチェの「永劫回帰」ってのもつまり「おまえは永遠に続く残飯あさりにおいても価値を求めていけるか」という試しなんだよね。追憶に留まる、止めるからこそ人間は美しい。やせ我慢じゃないよ。

*7:分かれ目ですな。運命の分かれ目、人生の分かれ目。私がもっとも衝撃を受けた歌詞が海援隊の「スタートライン」なのですが「今私たちに大切なことは 恋や夢のあたらしいことじゃなく ひとりぼっちに なるための スタートライン」という一節があり、この「わかれめ」という局面をもっともあらわしているなぁと思います。「おジャ魔女どれみドッカーン」のラスト五話も「わかれめ」の最適例ですね。人は人と出会うために生まれてくる。そして同じぐらい人と別れるために生まれてくるんだ。

*8:「いざ」で留まる心を奮い立たせ、さらばで踏み出す。おのずから歩むことができる幸福な別れ。それが「卒業」ですね。そして師との蜜月の終わり。「もう和菓子ももらえないんだ、ぐっすん」