思い出のマーニーを見て2 〜約束を作るための道〜

さて、1の続きです。

昨日の記事では、杏奈が「約束を作れない子」であることを、述べました。今日は、彼女の本編における道のりと、「約束を作れる子」になるまでをお話しします。

2.精緻なシナリオと、「約束を作る」までの道

本作は、とても精緻なシナリオで作られていると、私は思います。
こう言うと、「えー、原作があるんだから。シナリオが精緻というより、原作が精緻なんでしょう?」という疑問を抱かれる方もいるかもしれません。
半分はその通り、素晴らしい原作があってこその映画版「思い出のマーニー」です。
しかし、もう半分。ヒロイン杏奈という「約束を作れない子」をどう救うか?人と分かり合えない子を、殻を作る子に対して、どのような方法をとるか?という「救いのアプローチ」については…
…映画の方が、原作よりも、上です。
そしてこの点、杏奈を救うという一点にこそ、シナリオの命題は絞られていて、精緻にその過程が、織り成されているのです。

さて、杏奈が「約束を作れる子」になっていく過程、その話を追うにあたって、

ラクティス:杏奈自身による実践
アシスト:周囲による保護、手助け

この二つの用語を使いますので、記憶におとどめ置きください。

1.第一のアシスト・大岩夫妻
約束を作れない少女・杏奈は、医師の勧めもあって住まいの札幌から、道内の田舎へ療養に向かいます。そこで彼女のステイ先になるのが、養母の親類の大岩夫妻なのですが、彼らの存在こそが杏奈にとっての第一のアシストなのです。
この二人は物事を気にしない性格で、車も汚れっぱなし、部屋も行動も好き勝手です。でも、彼、彼女たちは杏奈や養母にはない、あるものをもっていました。
それは相手を放任できる「心の容量」です。
例えば杏奈が地元の子ノブ子と喧嘩をし、親が怒鳴り込んで来た時も、夫妻は杏奈を問いただしたりしませんでした。これだけなら主人公を守る、「よくいる身内」ですが、その後も杏奈が街中で眠っていたり、夜中に抜け出したり、いろいろな不審な行動をしますが、彼らは問いたださない。いつも上機嫌。
決して鈍感なわけではありません。その証拠に、物語終盤、養母が杏奈を迎えに来た時「今度は電話をかけるのを我慢できたね」と、労いの言葉をかけているのです。
そう、大岩夫妻は、上機嫌で、何も考えていないように見えながら、巧みに杏奈が「干渉を感じない距離」を保っているのです。
これ、口で言うのは簡単です。しかし、連日不審な行動を取る杏奈を何も言わず、何も干渉せず、ただ上機嫌であり続けるのは相当難しい。
でも夫婦は杏奈のために、「約束を作れない子」のために、快適な家を、善意でも、悪意でも、無意識においても「約束を強要されない空間」を、維持し続けていたのです。この第1のアシストがあってこそ、杏奈は次のフェイズへ向かうことができるのです。

2.第二のアシスト、第一のプラクティス・十一との出会い

大岩夫妻のおかげで、新しい環境に定着できた杏奈。しかし彼女はまだ自分から他者にアプローチしようなんて考えもしない。そこに第二のアシストである十一(といち)が現れます。
彼は無口な漁師で、杏奈を船に乗せてくれます。普段他人との約束を作れない、干渉を拒絶する杏奈も十一にはその拒否反応を示しません。何故なら、彼はこちらに語りかけてこない。無言でいるから。
会釈でなんとなく通じ、無言でなんとなくその場に居られる。お互いに会話なしで過ごせることで、杏奈の約束を恐る心も反応せず、共にいることができる。
この「言語を介さない交流」によって、杏奈の人間全般に対する不審はすこし、和らぎます。
そう、杏奈はここで、無言でありながら相手にアプローチして、船に乗せてもらっている。十一との交流は杏奈へのアシストであり、かつ、杏奈自身のプラクティスでもあるのです。

3.七夕の事件

順調だった杏奈の新しい生活にも、ヒビが入ります、そう、「約束を作られてしまった」せいで…。
ノブ子とその友達たちと七夕祭に行くことになる杏奈。彼らから繰り出される会話のパス、そのいずれもが「不安の種」であり、危険な「約束」の数々なのです。
そして、うかつにも短冊に願いを書いてしまったことで、杏奈はノブ子に会話を持ちかけられてしまいます。そこで「ふとっちょブタ」と罵って、逃げ出す。約束への恐怖から、恐れ予兆から、自らがその恐れを振りまく存在になってしまう。
「あんたは、見かけ通りの顔をしている」ノブ子のその言葉は正しい。
杏奈は、養母を避けたように、ノブ子を突き飛ばしたように「約束」の果てにある「裏切り」を恐れるあまりに、自分から先に相手を「裏切り」続けていく。
せっかく好転しかけていた環境が、また暗いものへ、元の約束を作れない杏奈、いやそれよりももっと恐ろしいものになろうとする時に―

――マーニーが、現れるのです。

4.第三のアシスト、第二のプラクティス・マーニーとの出会い

屋敷に向かって船を漕ぎ出す杏奈の前に、マーニーが現れます。彼女は矢継ぎ早に杏奈と心を通わせてしまいます。
他者とのコミュニケーションを嫌がっていた杏奈が、マーニーに心を溶かされ、彼女と三つの質問を交わすまでになります。
そう、あれほど約束を恐れていた杏奈が、約束にもっとも近い「質問」まで踏み込めてしまう。
ここでミソなのが、質問が「三つ」と、数字で示されたことです。数字という限界を切られることで、三回の質問という結末が示されていることで、杏奈は落ち着いて言葉を交わすことができる。有限を示されることで、無限から不安を持ってくる必要がないから。
こうして、杏奈はまた一つ階段を上ることができました。会話を交わして、「応酬」する。
その相手がたとえ、自分の約束の根源を司る存在・マーニーだったとしても、杏奈は、自分の手で、知らないうちに一歩先にいくことができました。

5.第三のプラクティス・喪失の予感
マーニーと知り合ううちに、杏奈は彼女が現実の存在ではないかもという思いを強くしていきます。
マーニーはそんな杏奈に言い続けます。「私を探して」と。
これは三つの質問とは違う。明日も、明後日も、場合によってはずっと続くかもしれない「約束」。
しかし、杏奈はマーニーのことが大好きになっていたので、約束に躊躇せず、踏み込みます。そう、いつのまにか、マーニーとの日々で、杏奈は「約束が作れる人間」になっていたのです。
でも、これで完成ではありません。彼女はあくまでかりそめの存在、杏奈がほんとうに約束を作れる人間になるためには、今を生きる人たちと、正面から向き合う必要があるのです。

6.第四のアシスト、第四のプラクティス・彩香

約束を残してマーニーは消えてしまい。湿っ地屋敷にも新しい住人がやってきます。それが杏奈よりも年下の少女・彩香です。
彼女は当初、杏奈をマーニーと勘違いしています。しかしその誤解が解けた後は二人でマーニーの謎に迫ろうとするのです。
ここで驚くべきことに杏奈は積極的に彩香との関係を築こうとします。それもそのはず、彼女はマーニーに繋がる手がかりを持っているから。そう、マーニーという存在を媒介にして、杏奈はまたひとつ約束を結び、先に踏み出すことができたのです。そう、今度は現実の人間と、自分から。
自分より年下の女の子、しかも相手はとても良い子で、会話も積極的に振ってくれる。そういう条件のもとでですが、約束を忌避していた杏奈は、ここまで来れました。
実は、原作のストーリーはここからすこし違います。マーニーが完全に退場した後で、彩香(と同じ役割をする少女)が現れるのです。映画の脚本では、あえてマーニーと少女を並列に存在させることで、さらに深く「約束ができない」杏奈の問題と、その解決を描いていきます。
そしてここで、アシストの段階は終わり。杏奈は今までいろいろな人から、本人は知らずにもらってきたアシストを使い、現実と、人々との「約束」のプラクティスを積み重ねていくのです。
ーーそう、ここからが杏奈の、折り返し。

7.第五のプラクティス・相手との約束を守りつづける

杏奈はマーニーを探し続けます。約束を守るために。そう、前の三つだけの質問とは違い、杏奈はマーニーを探し続ける。そういう「長い約束」もできるようになっているのです。
そして、再び現れるマーニー。彼女たちは森の中でお互いの苦しかったこと、嫌なことを打ち明けあいます。約束だけじゃない。今まで人と約束ができなかった「弱さ」の根源まで打ち明けられるようになった。
そう、それまでマーニーに先導される側だった杏奈も、もうすっかりマーニーと同じ立場になっています。そこで二人は、思わず言います。
「私たち、入れ替わったみたい」
入れ替わったようで、実はちがう。
彼女たちは入れ替わったのではなく、「統合されつつ」あるのです。

8.第六のプラクティス・相手の弱いところを触る、相手との約束を断る

そして、すっかり同じ立場になった杏奈はマーニーに言います。あなたが恐れているサイロに行ってみよう、と。
自分のトラウマどころか、身の回りに関することにすら触れて欲しくなかった杏奈が、マーニーのそういうところに触れる。それも、相手のことを思って、あえて、背中を押す。
そして二人がサイロに向かって歩いていく中、彩香はマーニーの手がかりをつかんだと、杏奈を誘います。でも、彼女はそれを断る。
そう、約束をしないのは拒絶がいやだから、拒絶されないため武装していた彼女が、相手に断りの言葉を、何気なくかけることに成功している。本人はマーニーを追うことに夢中で、そのことに気づいていませんでしたが。
…そこまでして、追い求めたマーニーに、杏奈は裏切られてしまいます。杏奈は一人、サイロに置き去りにされてしまったのです。そして、これが、最期のプラクティス。

9.第七のプラクティス・他者の約束破りを赦す

杏奈は、怒っていました。
あれだけ信じて、背中を押して、助けにすらいったマーニーに裏切られた、許せない。相手がなんと言おうとも。
…でも、もう無理です。杏奈がどんなに殻を作った気になろうが、自分はやはり一人なのだと思おうが、彼女はすでに、階段を上ってしまった。
大切な人を信じないでは、いられなくなってしまった。

だから、マーニーに「許してあげるって、言って」と問われた時、ためらいなく言う。
「もちろん許してあげる!大好きよマーニー」と。
そう、もう杏奈はマーニーを全身で受け入れてしまった。約束を作れない、前の自分には戻れない。好きな相手のためなら、自分が愛そうと思った相手のためなら、何度でも約束をする。それがたとえ裏切られても、何度も、何度でも。
そうやって、杏奈とマーニーは別れていくのです。別れることが、できたのです。
約束をすること、約束を打ち消すこと、約束を打ち消されること、それを許すこと。その繰り返しによって、人は強くなれるし、人を信じられるようになる。
原作は杏奈、マーニーのコミュニケーションの後に、周囲とのコミュニケーションの広がりを書きましたが、映画はこれらの進行をパラレルに描くことで、より杏奈が成長し、自分を、他人を許していく段階を鮮明にしているのです。

エピローグ・湿っ地屋敷という箱庭

マーニーとの出会いと別れによって、杏奈から「約束を作る」ことへの恐れが消えました。
だから彼女は約束をします。養母がお金を受け取ったことも、気にしてないと言い、彩香にもまた会おうと言い、そして、マーニーの真実を知ります。
そう、すべては自分の記憶が、祖母との思い出が作ったものでした。そして、それは生まれた時からの「約束」だったのです。
彼女は祖母との思い出という「約束」に守られ、愛されていた。そう、湿っ地屋敷は箱庭。彼女が自分との、自分の中のマーニーと対話し、約束をして、承認しあい、自分を許すための、箱庭だったのです。
だから、マーニーを許して、愛した杏奈は、無条件に自分を許し、愛することができる。約束ができる。
…だから、彼女は最期に「外側」に行きます。
ふとっちょブタと言って逃げた、ノブ子へと頭を下げます。そしてノブ子から「来年の約束」を、受けとるのです。
…彼女と仲良くなれるかは分からない、…ここで来年もうまく過ごせるかはわからない、
でも、杏奈は長い長い殻を抜けて、ここに到達した。ここまで来れた。だから、大丈夫。これからも、きっと。


すべての「約束が作れない」多くの子供たちに、私に、希望を与えてくれた。

…そういう希望の物語に、ただ、ただ、感謝を。

思い出のマーニーを見て1 〜約束を「作れない」子供たちに〜

ジブリ映画「思い出のマーニー」、見てきました。とても、とてもよかった。

主人公・杏奈のキャラクター造型が、そして彼女のために与えられシナリオが、とても精緻で、大満足でした。
でも、ある部分を見逃してしまうと、この作品の真に汲み取って欲しいメッセージが伝わらずに、「ワガママな女の子が改心する話」とだけ受け取られてしまうかもしれない。

そこで、これだけは伝えたいなと思い、一年ぶりにブログの筆を執った次第。
私が一番伝えたいこと、それは…

…この世界には、約束を「作れない」子供がいる、ということ。


※ここからはネタバレ上等になります。また、語りも見た方前提のものが多いので、未見の方は、そっとブラウザをお閉じください…。


1.約束を「守れない」、ではなく「作れない」娘・杏奈

まず、最初に質問。この作品の主人公、杏奈を見て、皆さんはどう思いました?

無表情、周囲に壁を作る、精神が苦しくなると喘息の発作がでる、そのくせ、人を貶す言葉は出てくるし、愛のある養母に壁を作る、…なんだか、自分勝手な子。

そんな感想が出てくるかもしれません。事実、彼女は世界を「円の内側と外側」に分けて、自分と他者を線引きしています。

…でも、私は思いました。
彼女は内向的で、時に攻撃的で、傍若無人で、行動も意味不明、…でも、実は「ひとつの線」で、それらはつながる。

そう、彼女・杏奈は「約束が作れない子」なのではないか、と。

それが端的に見られるのが、彼女がおばに連れられて行くシーン。おばと相手の女性の会話の中で、「七夕祭りに娘と一緒にいったら」という意見が出た途端、彼女はそれを嫌がるそぶりを見せます。
さらに義母から書くように言われた手紙も、具体的な描写を少なめに、相手がそこから言葉を発展させない、足がかりにならなそうな言葉を綴って、送ります。

これらのシーンを見て浮かんだのが「約束を作れない子」なのではないか、ということでした。

このタイプの子は、約束を「守れない」子とは違います。
約束が守れない子は、人と約束をすること自体は躊躇しません。
その場しのぎのため、もしくはその時は本気で約束をします。しかし、その約束を自分の都合や、勝手な書き換えによって破ってしまいます。さらに、破ったことを誤魔化したり、自己正当化することを、繰り返す。
一方、約束が「作れない」子は、そもそも約束をしようとしません。何故か?「それが破られる予感があることにすら、耐えられないから」、「約束のもたらす、破綻のイメージが怖いから」なのです。
普通、約束をした段階ではそれが守られるか、破られるかは未定です。しかし、約束が作れない子は、約束を交わす段階で、破られるシーンを幻視してしまいます。そしてそのイメージに縛られ、約束そのものを忌避してしまう。

杏奈はそういう子として冒頭から描かれています。この映画のオープニング、彼女は美術の屋外写生で黙々と絵を描く。それを「見せてみろ」と言う教師。彼女はおずおずとスケッチブックを渡そうとするも、突然滑り台で子供が泣き出したので、そちらに気を取られる教師。そして、彼女はその中断にすら、拒絶を感じ、喘息の発作が出る。
…このシーンです。ここで教師は杏奈を無視したわけじゃない。ただ、子供が泣いた方に気を取られただけです。しかし彼女はそれすら「相手からの拒絶」として受け取ってしまう。そこからもう一度「絵を見てください」とは言えない。彼女の門は、そこで閉じる。

そう、彼女が約束を作れないのは、相手のそぶりに拒絶を感じてしまうから。たとえ、いや、たいていは、それは何気ない素振り。でも、彼女はそこに拒絶を感じる。少しの間、意思の中断、悪気のないイイエのサイン。それら全てに、「拒絶の予感」を見てしまうのです。
「そんな些細なことで」と思うかもしれません。でも、私には彼女の思いがよくわかります。私もまた、そうだったから、無意味に約束を恐れる人間だったから。
だから、彼女が義母を避ける理由もよくわかる。義母は、彼女を誰よりも愛しているが故に、彼女にかまってしまいます。愛を押し付けているわけではないけど、かまって、思わず泣いてしまう。
その「かまう」ことにも、杏奈は「約束」を感じる。だから、義母が構えば構うほど、そこに約束を感じて、裏切られる予兆を感じて、それが抑圧になって、彼女は引いてしまう。
義母では杏奈は救えなかった。それは愛がないからでも、押し付けているからでもなく、約束を作れない子、作りたくない杏奈の心性を知らなかったから。そして杏奈がなによりもそのことを、知られたくなかったから。

だから杏奈は理由を作ります。
義母は自分の養育費用を自治体から受け取っている、自分はお金に換算される存在なんだ、と。
物語中盤で出てくる「杏奈の思い」を言葉通りに受け取っては、彼女が「思春期独特の潔癖がこじれた子」としか、見えないかもしれません。事実はもう少し複雑だと私は思います。
杏奈は、理由を作りたがっているのです。「約束が作れないこと」をさらにこじらせて、「作られた約束は裏切られるべき」という、妄念へとシフトしかけていたのです。
お金を受け取っているのが許せないのではなく、本当はお金を受け取っていることを理由に「やっぱり義母もそういう人間なんだ」と思いたいのです。約束が作れない彼女、つまり、約束したら裏切られるから。ちょっとの拒絶も心が勝手に裏切りに感じてしまうから。
だから義母の約束も、長く長く自分に行われた約束も嘘に違いない。あのお金がその証拠だ、と。
…幸せな義母との関係が、お金の発見で破られたのではない。約束がいつまでも破られないことへの居心地の悪さを、逆にお金で説明しようとしているのです。
杏奈は約束が作れない子、すべての約束に破られる未来を見てしまう子、ついにはそれを恐れるあまり、自分を救おうとしてくれる人も「いつかきっと約束は破られる」という予兆と偏見で見てしまう子。

…この子を、「こじらせている、救われない子」というのは簡単です。でも、私はこの子の、杏奈の気持ちが分かる、痛いほどに。そう、私もまたそういう人間だったから、ずっと約束が怖かったから。
だから、彼女が他人には見えない。彼女が救われない限り、私だって救われない。

ーーでも、彼女は救われた。

奇跡でも、偶然でも、ご都合主義でもなく、一歩一歩、丁寧に丁寧に、彼女を、彼女と同じ境遇の子を救うすべを、過程を、この作品は描いてくれた。

だから、私はこの作品が、大好きになりました。

次回は「約束を作れない」杏奈をこの作品はどうやって救っていったかについて述べていきたいと思います。

さやかちゃん描いたので・・・

さやかちゃん描いたので置いておきますね。

いや〜、本当によかったわ〜、映画。
特にさやかちゃんの「復権」が、イチオシ。
いやはや、前章の物語ラストで彼岸の劇場で涙を流しながら消えて行った甲斐があったというものです。よもや劇場で大復活を遂げるとは。
まどかのアバター的な存在でありながら、ほむらとも渡り合うことが可能というおいしいポジションで、美樹さやか奉賛会の私としましては言う事なしですね。
でも完璧超人ではなく、最期にほむらにちょろまかされて、やっぱりへにゃっとなってしまうのが、もう欠点でもなんでもなく、

―それこそが、美樹さやか、ですねっ!!

阿弥陀教から、ゾロアスター教へ。さらに、先へ  〜まどか☆マギカ劇場版を見て〜

劇場版 魔法少女まどか☆マギカ 叛逆の物語、見てきました。

うん、感想は。よくぞ「こうしてくれた」と。

テレビをリアルタイムで追っていたとき、私は「結末はこうなったらいいな」という予想を何通りか、立てていました。
その一つにテレビ版の結末もありました。まどかが全ての魔法少女の思いを己を対価に救うという、結末も。
私はそれを仮面ライダーブレイド型」と名付けていました。仮面ライダーブレイドの主人公・剣崎は生物が相争うバトルファイトの連鎖を止めるため、その連鎖の中心で苦しむジョーカーを救うため、自らがジョーカーとなり、戦いの連鎖を止揚します。
まどか神の存在がありながら、魔女の連鎖が止揚されただけという点では、ブレイドと類似性があります。

テレビ版で描かれたまどかによる救済。その荘厳さに心を打たれた一方で、「ブレイドのその先を見せて欲しかった」という、私の中の一抹の思いも残り続けていたのです。

…しかし、今回は見事に「やって」くれた。
その先を、見せていただいた。

前回のまどかによる救済を「書き換え」、ブレイド型のさらにその先へと行ってくれた。
そう、今回の「叛逆の物語」の構図を何に例えればいいのだろうか。何と言えばいいのだろうか。ああ、アレだ。ああ言おう。

…叛逆の物語は、二神教で、二元論と化したゾロアスター教型」なのだ。

  • 阿弥陀三尊 まど神さまと眷属と

前回の宇宙神となったまどか神さまは、放送後、阿弥陀如来に例えられました。
宇宙の果て、西方極楽浄土で光を発し、あらゆる煩悩にまみれた人々をその死とともにただちに来迎し、救う。絶対の救世主。
今回の劇場版でもそのイメージは強化され、さらなる追加要素によって、より強調されています。
それが、まどか神に付き従う二人の眷属の存在です。

観音菩薩勢至菩薩は、阿弥陀如来の眷属です。この三尊をして、あらゆる宇宙のあまねく衆生を極楽へと導きます。
観音菩薩水の女神・アナーヒタを源流としている菩薩です。どこにでも自由自在に現れて人々を救います。手には水の神であったときの名残の水瓶を持っています。というか、本作ではさやかちゃんです。属性、水やし。
勢至菩薩は人々が餓鬼道や地獄道に落ちないように見守り、助ける存在です。チーズを貪る餓鬼道を逃れ、人々を救う百恵なぎさはまさにこれです。
この二人の眷属を遣わすことで、魔法少女の救いを求める声を察し、来迎するまどか神。阿弥陀如来のイメージに本作ではより近づけてきたと言えましょう。

さて、この阿弥陀如来。別名に無量光如来という名前があります。無限の光をその身に宿した「ひかりふる」存在。その源流には中央アジアで発生したゾロアスター教最高神アフラマズダがあります。はい、ここでゾロアスター教と繋がってきますねえ。

実は、前作まで阿弥陀如来だったまどか神さまは、本作でアフラ・マズダーへと先祖返りするのです。

ゾロアスター教は世界最古の善悪二元論の宗教と言われています。善神アフラ・マズダーに対応する形で、悪神アンラマンユが存在し、あらゆる存在は善と悪の二つのカテゴリーに区分されるのです。
本作では暁美ほむらの「叛逆」によって、唯一神だったまどか神は、善悪二元論の一方の神へと堕とされます。阿弥陀からアフラマズダへの先祖返り。
そして悪神アンラマンユとなることによって、ほむらはまどか神とこの世界を二分する。あまつさえ、神だったことを忘れさせてしまうのです。ここらへんも人々が善なる存在による被造物であったことを忘れて生きているという、ゾロアスター教の思想が透けて見えます。

しかし、ゾロアスター教との違いもあります。
ゾロアスター教は善悪の二勢力がいるとはいえ、最終的には善の勢力が勝利し、世界は統一されます。
したがって二神教ではなく、一神教です。ですが、叛逆の物語。悪神アンラ・マンユと化したほむらはまどかと拮抗し、あまつさえその記憶を制御下に置くなど、拮抗の中にも優位を保っています。
つまりゾロアスター教よりも、より二元論であり、一神教ではなく、二神教なのです。

実はゾロアスター教の神々はオリジナルではなく、アーリア人の古宗教の神々を下敷きにしています。日本では天と阿修羅と呼ばれるのがその神々で、アフラマズダは阿修羅=アフラに、アンラマンユはダエーワ(デーヴァ)の王に属します。この古宗教では二つの存在は拮抗しているのです。

さてさて、ここで唐突に天にも阿修羅にも属さない存在の話をしましょう。
それがミトラ神。日本には弥勒菩薩として伝わった神格です。
この神は仲裁の存在として、天秤として、阿修羅にも天に、アフラマズダにもアンラマンユにも組みしません。善でも悪でもない、世界の調和を司る存在。
実は叛逆の物語の驚嘆した点として、この物語はキュゥべえをミスラに比する存在として復権させているということが挙げられるのです。

「えー、だって、今回のインキュベーターは小悪党じゃんか。まど神様連合にも、悪魔ほむらにもボコボコにされて、世界の片隅でほそぼそとしてるじゃんか」と、みなさんは言うかもしれません。
…が、違います。前作でも、今作でも。善神まどかも、悪神ほむらも、インキュベーターを世界に残して行きました。それは彼らを排除しきれなかったからか、前作ではそうでした。インキュベーターはまど神様の一神教の下でただの救いの道具と化してしまいました。しかし今作ではほむらは「世界を攪拌する存在として、インキュベーターを据え置いている」のです。
そこでインキュベーターはまどか、ほむら二つの意思の中間に存在する特別な「第三の点」としての位置を獲得したのです。
ほむらは、まど神さまが支配する世界も、自分が支配する世界も「調和そのもの」とは捉えず、いわば善悪転換を繰り返す世界そのものを「調和」として位置付けているのです。
その世界を、回転させる道具。カゴを回すハムスター。そしてある意味かけがえのない道具として、外部の存在としてインキュベーター復権させているのです。
これによってトリニティが成立し、インキュベーターはさながらミスラに近い、仲介者のポジションを得ることになったのです。
本人はむちゃくちゃ嫌そうだったけど・・・。


-まとめ 尾を喰らう蛇について

今回、かくまでの世界を確立し、仮面ライダーブレイドでも、はたまた神への反逆を描いたデビルマンでもない、「阿弥陀から古宗教へと先祖返りしつつ、新しくなりゆく世界」を確立した虚淵玄というライターに、私は賞賛を禁じ得ません。
そしてその善悪のたゆまない運動こそ、まさにウロボロスの輪、尾っぽを食らう蛇であり、ウロブチにも繋がるであろうと思うと、うう、よくぞここまでと。

ただ、ただ、頷くしか、ないのです。

仁を意訳すると「じんかん」か?

「仁」、儒教の根本概念にして、あらゆる徳目の故郷。

孔子の仁について述べているコメントも人とシチュエーションによって、てんでバラバラ。

なぜならば、仁とは共通して仰ぐべき徳目ではなく、一人一人違うもの、それぞれの人間が自分の身の丈で育てて行くものだからだと、私は考えます。
なので、私が仁を日本語にするならば「人間」。「にんげん」とは読まず、「じんかん」と読みます。

人が人と関わろうとする意欲、そんな微細な、そして根本的な意欲から、すべての仁は生じ、結局はそこへと尽きるのではないでしょうか。

仁、「人ふたり」と書いて、仁。

人は一人一人は似通っています。自分一人で煮詰まった思想は、どこか世界と、他人と、なかでも煮詰まった他人と、よく似ています。

でも、二人は誰とも似ていません。

人ふたりには、無限の組み合わせがあります。人さんにんでは、ある程度類型化され得ます。陰陽、二者の関係こそがもっとも無限を、感じさせる。

だから、仁はじんかんであり、人ふたり。

もっとも捉えにくい、「道」のように、捉えにくさを前提としたものよりも、目の前に見えるだけに変幻自在の実存なのでしょう。

だから、仁は隣にいる人によって姿をかえる。
だから、孔子は隣にいる人によって仁をあらわすことばを変えた。

ことばなきことば、仁を探す必要はありません。ただ、人ふたりを思い、じんかんに生きれば、おのずとそこに仁の影は見えてくる。

その影をふと「仁也哉」とささやくときが、瞬間が、自分の仁、なのでしょう。

どうぶつは空気をよむ

どうぶつは空気をよむ、いじめもすれば、愛もある。

どうぶつは距離感をしっている。たわむれの姦淫もすれば、アイデンティファイもする。

そうなれば、最も「人間らしい」と我々が信じている諸所のものは、わりあいに人間らしくはなく、最も人間らしくない諸所の機械的な抑圧は、もっとも人間らしいものなのかもしれない。

それを「人間らしい」と言いたてないのは、我々が人間らしさにどこか、高を括っているからだろう。より人間らしく生きることを、さも、動物らしく生きないことと、勘違いしているからだろう。

そういう意味では架構とイメージとで作られた、イスラエルという国や、パリの街は機械的な調律によって成し遂げられたという点では人間らしく、海に土地を区切られ、統一感なく林立するままのビルに任せている、抑圧されることなき都市・東京は自然の精神の元、構築されつつある景観と言えるのではないか。

自然とは環境だけでなく、精神にも付帯するものであり、それを調律しようという試みは極めて人間らしく、窮屈な姿なのである。我々は「人間らしく」生きようとすれば、早晩、その景観の凄まじさ、心象の凄まじき際まで、追い詰められ、死に至るだろう。