「中途半端」を「択ぶ」ことはできるか?

私は臆病です。
客観的に見てもそうかもしれませんが、とりあえずは主観的に、臆病です。
で、臆病な人間が弱いものが「啓蒙」です。最近、この「啓蒙」について考えるところがあります。それに対する、私を含めた弱者の対応についても…。
なんと言うあさはかな俺
この増田さんは面接に落ち、そのことを相談した昔バイトをしていた社員さんに自分の欠点を指摘されました。記事の大半はその指摘内容の羅列になっています。
正直、私も読んでいて思い当たるところがある。苦しいところです。で、「はてな」者の常として、注目記事の裏面広告(はてブコメント)を必ず覗いてしまいますね、私。そこでは
「指摘してくれるなんていい先輩じゃないか」「社会に出たら「欠点」を指摘してはくれない」と言う声。
「説教好きのカモにされている」「こんなのバーナム効果で誰にでも当てはまる」という声。
この二通りがあります。
かように賛否両論、喧々諤々になるのがはてブのよいところで、私も原記事を見て自分の感想を固め、はてブコメントを恐る恐る除いて自分の考えに近い人を見つけては、ホッとして、ソッとはてなスターという、コスい楽しみ方をしております。
で、これと似たような記事がつい先ごろありましたよね。いや、記事の内容もさることながら、はてなユーザーたちの反応がソックリだった。
要は、勇気がないんでしょ? - Attribute=51
ここでも意見は肯定、否定の二つに分かれる。
「自分の痛いところを指摘された」「考えるよりまず行動だ」と言う声。(少し単純化しすぎた)
「勇気と蛮勇はちがう」「マッチョイズムに流されてはならぬ」と言う声。
意見の相違まで相似系。ここで記事の内容も含めた共通点を整理します。


・書き手(A)が自分の欠点を第三者(B)に指摘されている。
・そのことによって反省、己の不甲斐なさを記事にする。
・ブクマやコメント(C)がBに感化されたAに対して賛否両論を展開する。


かような図式が成り立ちます。で、ここでCの誰かが私に聞くかもしれません。
「あんたは東西陣営のどっちに加担する気だ?」と。そうしたら私はこう答えるしかありません。
「そのつど、気が向いた方へ、中途半端に加担します」と。
そもそも一人の言葉やログ、しかも断片的な情報で陣営が二つに分かれるなんて、ネットぐらいのものだと思うのですよね。ここに記されているログの内容に五体投地して、全面的に賛意を示したり、叛意を示すには情報が少なすぎるし、なにより「わたしはあなたをしらない」。
むろん、現実でも同じです。id:guri_2さんの記事にある程度の賛意は示しつつ、叛意も示す。増田さんの先輩の意見も「仰るとおりです、私が悪いのですウルル」と聞きながら、「カス、てめぇに言われたかねえやっ!」と毒づく。オルタナティヴに、デッドオアアライブに、おのれの身の振り方を100パーセント言われた方向に向ける、仰せごもっともと受けたまわる。そんな「帰依」が出来るなら、これほど幸せなことは無い!(本気で言っています)
でも、実際には、誰もがそうできない。だからこそ世界には「多様さ」と「中途半端さ」があると考えます。そして、そんな誰もが「幸せ」になれない世界のほうを、私は愛しています。「中途半端」に「流れ着く」のではなく、あえてそれを「択ぶ」。そうありたいとは、思います。
ですが、問題が一つ。この立場こそがもっとも「だからオマエは中途半端なんだ」という言葉に弱いのですよね。そう指摘されたとき「私はココを択んで、ココにいるのです」とひとまずは言うでしょう。ひょっとしたら相手もそれで納得するかもしれません。しかし、言った本人の胸の中には必ず「ホントにそうなのか」「自分のはただの言い訳では」という思いがわだかまるでしょう。
ですが、忘れてはいけません。そこでわだかまりがあるからといって「自分がニセモノで相手は正しい」と、短絡的に結論付けてしまうことは、「中途半端」を択んでいることになりません。
外側に、人の意見に「真理」を求めることは大切ですが、同時に自分の中にも同じぐらいの「真理」があることに思いを致さなければ、自分に対して申し訳がないでしょう。そしてそこに思いを致すときに「相手が俺を非難するから相手が悪い」と考えて、落ち着こうとすることもダメです。それだと相手に対して申し訳がない。「好悪」を除いて、恨みや稚気ではなく自分で「中途半端」を決定する。そうありたいと思いつつ、なかなかそうあれない。遥か遠しアタラクシアです。